桃源鏡・第3章「凍てつく絆」

作:幻影


 日の落ちた空は未だに歪んだままだった。
 開かない教室の窓から椿が不安定な夜空を見上げていた。
 今、校内に残っている人たちは、いつもと変わらないように見えて全く別の世界として隔離してしまっている。
「弥生、遅いね。」
 椿が振り返りざまに葉月たちに聞く。
「もしかして、何かあったのではないでしょうか?」
 満月の言葉に葉月は座っていた椅子を立ち上がった。
「私、ちょっと見てくる。」
「待って、葉月ちゃん。葉月ちゃんまで何かあったら・・」
 椿が葉月を呼び止めるが、彼女は笑顔で答える。
「大丈夫だよ、椿ちゃん。さっきも見たでしょ?自分の身を守ることぐらいはできるから。」
 葉月は振り返って教室を出て行った。彼女は柔道と少林寺拳法を習っていて、それは護身用としても重宝している。
「ああ言ってはいますが、本当に大丈夫なのでしょうか?人をガラスにしてしまうような相手ですから。」
 それでも満月は不安を拭えなかった。あまりに現実離れした出来事に直面して、動揺を隠せない人はまずいない。
「大丈夫だよ。弥生も葉月ちゃんも強いし、椿も簡単に負けないんだから!」
 椿がガッツポーズして満月を勇気付ける。
 しかし椿は、弥生のように喧嘩をしているわけでも、葉月のように武術を学んでいるわけでもないので、その自信は根拠のない強がりでしかなかった。
「キャーー!!」
「うわぁーー!!」
 そのとき、廊下のほうで何人もの悲鳴が響き渡った。
「何っ!?」
 満月が立ち上がって教室の外の様子をうかがおうと顔を覗かせた。
「わぁぁーーー!!」
 そのとき、椿の悲鳴が教室内から響いた。
 慌てて振り返った満月の眼に、異変を起こしていた椿の怯える姿だった。
 彼女の胴体が透き通ったガラスへと変化していた。そしてその視線の先にある窓ガラスには、冷たい眼をした銀髪の少女が映っていた。
「も、もしかしてあなた、葵柚希さん・・?」
 満月は恐怖を抑えて声を振り絞った。しかし、柚希は満月たちを見つめたまま何も答えない。
「椿さん!」
 満月は椿に駆け寄った。椿はガラスへと変化していく体を震わせて柚希を見つめたまま動かない。
「み、満月ちゃん、あの子の手から出た光を受けたら、体が急に冷たくなって、感覚が麻痺するような気分になって、全然動かせなくなっちゃったんだよ。」
 柚希にかけられた力によって、椿のガラス化が進行し、次第に体の自由が利かなくなっていた。
 そして柚希の重く閉ざしていた口が開いた。
「私はこの学校を許さない。かわいそうな人を助けようともしない人なんか、私の力で永遠の苦しみを与えてあげる。」
 柚希によってガラスの像にされた人は、粉々にされない限り決して死ぬことはない。その代わり、ガラスとなった体は動かすことはできない。
 つまり、壊されて死ぬまでは不自由を強いられることになり、永遠にその苦しみに溺れ続けることになる。いつ壊されて死ぬかもしれない恐怖に怯えながら。
「あなたが恨んでいるのは舞さんたちでしょう!?だったらなぜ無関係な椿さんにこんなことするのですか!?」
 満月が声を荒げる。しかし柚希は変わらない口調で。
「言ったはずよ。私はこの学校を許さないって。私を苦しめた舞たちはもちろん、私を助けてくれなかった心のない人たちも、全て私が罰してあげる。」
 そう言って柚希は右手を上げて困惑する満月に向けた。
「満月ちゃん、逃げて!」
 手足までガラスになった椿が、振り向かずに満月を促す。同時に、満月は何も入っていない花瓶を、柚希を映し出している窓ガラス目がけて投げつけ、きびすを返した。
 柚希の手から放たれた光にのまれた花瓶が、半透明のガラスに変わる。そして投げつけられた勢いのまま窓ガラスに激突して粉々になる。
 しかし、柚希を映す窓ガラスは割れるどころか、ヒビひとつ入ってはいなかった。
「満月ちゃん・・・弥生たちに・・しら・・せ・・・て・・・」
 ガラスへの変化で脱力していく体で、椿が必死に声を振り絞る。
 凍りつくようにガラスが彼女の顔を覆い、麻痺するような冷たさが彼女の意識を奪っていく。
 最後に瞳もガラスに包まれ、椿は完全なガラスのオブジェと化した。

 教室を飛び出した満月は、恐ろしい光景を目の当たりにする。
 廊下や教室には、様々な格好をした生徒や教師のガラス像が並んでおり、残った数人の生徒が怯えて立ち上がれなくなっていたり、混乱して駆け回っていたりしていた。
「もう、こんなに犠牲者が・・」
「私は今は鏡の世界の住人。姿を映し出すものがある限り、誰も私から逃げることはできないわ。」
 自分の小さな呟きに返ってきた声にはっとして、満月は背筋が凍るような気分に陥った。
 恐る恐る振り返ると、そばの窓ガラスに柚希の姿が映っていた。教室で見たときと変わらない態度で、冷たい視線を満月に向けていた。
「いつの間に、こんな・・なんで無関係な人まで・・」
 悲痛な面持ちで問いかける満月。柚希は冷淡な態度に怒りを込めて答える。
「無関係?助けてくれようともしなかった人も、罰すべきなのよ。」
「この人たちがあなたに何かしましたか!?確かに助けてくれませんでしたけど、あなたを追い込んだりはしなかったはずです!」
「つまり、何もしなかったと言いたいの?何もしなかっただけでも罪なのよ。」
 柚希は同じように右手を満月に向ける。
 満月が再び駆け出そうと辺りを見回す。すると、彼女が視線を移す先の窓ガラスには、必ず柚希の姿が映し出されていた。
「動こうとしなくても、私の思いひとつで鏡を伝って瞬時に移動することができるのよ。だからあなたは、もう私の力を受けるしかない。」
 まるで何人もの柚希に囲まれた威圧に襲われて、満月はその場に立ち尽くすしかなかった。
(弥生さん、葉月さん・・・)

「あっ!弥生!」
「葉月!?アンタ、こんなところで何やってんだ!?」
 一方、体育準備室から戻ってきた弥生は、彼女を探して教室から駆け出してきた葉月と鉢合わせとなった。
「弥生が心配になって・・それにしても、周りみんなガラスの像に・・」
「ああ。この学校にいるヤツらが無差別にやられてる。」
 2人が通ってきた廊下や教室には、柚希によってガラスにされた人たちが並んでいた。
「柚希のヤツ、何を考えてるんだ!?舞たちに仕返しして、それで終わりのはずだろ!」
 弥生は柚希に対する苛立ちを隠せず、歯がゆい思いを感じていた。
「ってことは、満月さんたちが危ない!」
 葉月の言葉に弥生ははっとして、2人は教室目指して慌てて駆け出した。
 そして椿のいるはずの教室の近くの廊下に差しかかったとき、2人は愕然とした。
「そんな・・」
「満月さん!」
 葉月は立ち尽くしている満月に駆け寄った。彼女の体は氷のように冷たく透き通ったガラスに変わりつつあった。
「葉月さん、椿さんが・・」
 椿も柚希の放った光を浴びてガラス像にされてしまったことに、葉月は愕然とする。
「葉月さん、弥生さん、逃げてください!学校のみなさんをガラスにしているのは、柚希さんなんです!」
「知ってるよ。」
 弥生が無表情で答え、満月と葉月が驚く。
「さっき会ってきたんだ。柚希は、自分を助けてくれなかったみんなも許さないらしい。」
「そんなことって・・・」
 葉月は腑に落ちない気分を感じた。
 なぜ関係のない人たちが、柚希を助けてくれなかっただけでひどい仕打ちを受けなければならないのか。
 彼女の気持ちを察しながらも、葉月はそれを認めたくなかった。
「満月さん、私、柚希さんを止めて、満月さんたちを元に戻してみせます!」
「葉月・・」
 葉月の決意に、弥生は小さく安堵の吐息を漏らす。しかし、満月は悲痛に声を荒げる。
「葉月さん、やめてください!あなたたちまでこんな思いをするなんて・・」
「満月さん、大丈夫だから。私たちは、大丈夫だから・・」
 葉月は満月の肩を掴み、彼女を言いこめる。葉月の眼からは涙がこぼれ、満月のガラスの体に流れ落ちる。
 それに惹かれて満月も涙を浮かべる。彼女の体はほとんどガラスになり、首から上を残すのみとなっていた。
「葉月さん、弥生さん、無事で・・い・・て・・・」
 悲しくも必死に声を出す満月の顔がガラスに包まれていく。そして眼から涙がこぼれた瞬間、その瞳もガラスに包まれ、彼女は完全なガラス像となった。
 周囲は何体ものガラスの像のように重く冷たい空気が支配し、音ひとつしない静寂に包まれていた。
 外は夜の闇が覆い、廊下や教室の電灯だけが光っていた。
 逃げ惑う人は誰もいない。この校舎にいる全員が柚希によってガラスにされてしまった。
 今は葉月と弥生が残るだけだった。
「柚希!姿を見せろ!」
 どこに向けられているものなのか、弥生が柚希に向かって叫んだ。彼女の声が反射してやまびこのように響き渡る。
「アンタは、こんな心の冷たい人間だったのかよ!?こんな非情なヤツだったのかよ!?」
 必死に呼びかける弥生。その想いを、葉月は唖然と見守りながらも強く感じていた。
 そして、窓やガラス、姿を反射させるもの全てが光り輝きだした。
「うわっ!」
 あまりの眩しさに、葉月と弥生の眼がくらむ。
 やがて光が治まり、彼女たちのそばの大きな鏡に、柚希の姿が映し出された。
 葉月と弥生は覆っていた腕を下ろして柚希の姿を見据える。
 さっきの光がガラスに変えてしまう力だと思えたのだが、自分たちの体に何の異変もなかった。
「柚希・・・」
 弥生が悲痛の想いで柚希を見つめる。眼から涙がこぼれそうになるのを彼女は必死にこらえた。
「弥生、私はみんなを許さない。さっきも言ったでしょ?こんな薄情な人たちには、私のこの力で生き地獄を与えてやるわ。」
 柚希はゆっくりと右手を上げ、葉月に向ける。
「大切なキーホルダーを壊した舞たちや、そんな私を助けてくれなかった人たちへの憎しみが、このガラスの力を生み出したのよ。鏡の中の住人になることと引き換えにして。鏡の中の住人となった人は、外の世界に出ることはできない。だけど、人を超えた力を使うことができるのよ。」
 葉月を鋭く睨む柚希。ガラスの力が放たれると思い、葉月は身構えた。
「あなたもガラスに変えてあげるわ。だけど弥生、あなたは別よ。あなたは私のかけがえのない友達。薄情な人とは違うわ。」
「柚希、いい加減にしろよ!」
 振り向いた柚希に弥生が声を荒げる。
「そんなことしたって、あたしは全然うれしくないよ!今アンタがやってることは、舞たちがやっているのと同じ!自分の苛立ちを力と一緒にぶつけているだけだよ!」
「違う!」
 弥生の言葉に、柚希は初めて苛立ちを表した。
「私はあんなひどい人たちとは違うわ!自分たちのしたいようにしてる人たちに、私は無茶苦茶にされたのよ!私みたいな辛い思いばかりする人をこれ以上作らないためにも、私がああいった非情な人たちを裁くのよ!」
 そう言って柚希は葉月目がけて光を放った。葉月は横に側転してそれをかわす。
「やめて、柚希さん!あなたが今していることも、結局は自分のしたいようにしてるだけ!舞たちやみんなへの仕返しをしたいから、こんなことをしてるんでしょ!?」
「勝手なこと言わないで!あなたに私の、私たちの何が分かるの!?ここのことなんて何も分からないのに、分かったような口聞かないで!」
 柚希は再び右手を上げて力を収束させる。葉月は身をひるがえして備える。
 しかし一瞬眼を放した直後、今まで映っていた柚希の姿がない。
(いない!?)
 胸中で驚く葉月。その背後から淡く輝く光が差し込んできた。
 振り返る葉月の視線の先に、柚希がさっきと同じ構えで彼女を捉えていた。柚希は瞬時に鏡から葉月の背後の窓ガラスに移動してきたのである。
「あっ!」
 葉月が横に飛ぼうとするが、柚希の光をかわしきれない。反射的に腕を上げて顔を守る体勢をとった。
 まばゆい光が葉月を包み込む。
 やがて光が治まり、柚希が葉月の姿を捉えようと眼を凝らした。
 光の消えたその場所には、体勢を崩してしりもちをついている葉月と、仁王立ちをして彼女の前に割り込んだ弥生の姿があった。
「弥生!?」
「や、弥生・・・」
 柚希が驚愕の声を上げ、葉月が困惑した面持ちで呆然と弥生を見つめていた。
 彼女の手足は柚希の光を浴びたことによって、半透明のガラスへと変わっていた。
「弥生・・どうして・・・」
 柚希が変わり果てていく弥生の姿に動揺する。
「仲間(ダチ)は大切にしないとな!」
 弥生は困惑する柚希を見据え、強がりと作り笑顔を見せる。ガラスの力が徐々に浸食をして、彼女の体を包み込んでいく。

つづく

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