作:闇鵺
弥生が帰宅してから五分も経たずに春がやって来た。
全速力で走ってきたらしく、ゼーゼー息を切らせている。
「今すぐ」と言ったのは自分だけど、何もそんなに必死にならなくても良かったのに。
こんな春を見ていると弥生はどうしても微笑ましい気分になってしまう。
そして同時に、これから自分がしようとしている事を考えると…後ろめたさも…。
「ハァ…ハァ……。それで、どうしたの…急に…?」
「わざわざ来てくれてありがとう。上がって、春」
春を部屋に案内する弥生。そして、扉を閉めて鍵を掛けた。
春は弥生の部屋に異変がある事に気が付く。
「弥生ちゃん、何この床に書いてある…模様?」
大きな円の中に複雑な幾何学模様がいくつも刻まれた図面。
少なくとも春の記憶の中には度々出入りする親友の部屋の床に
こんな複雑な図面が描かれていた事など無い。
「その円の中に入って」
いくら勘の鈍い春でも弥生の様子が少しおかしい事は見て取れる。
でも、弥生の声に静かながらも逆らい難い迫力を感じた春は言われるがままに
まるで魔法の紋章みたいな円の中に入るしかなかった。
「…あぁ……!?」
円の中央に足を踏み入れた途端、急に全身から力が抜けてその場にへたり込んだ。
体中がだるくて、まるで言う事を聞かない。
「……弥生ちゃん……?
なに…これ……?
…わたし…どうしちゃったの……?」
「心配しないで。ただ、あなたを私のものにするだけだから」
「…弥生…ちゃん……、それって…どういう………」
「今日のパンツ、お気に入りのピンクのやつなんだね」
はしたなくも尻餅を付いている春。
ほんの少し開いた脚の隙間からは確かに彼女の下着が丸見えだろう。
春は慌てて姿勢を正そうとして、気だるく投げ出された両足の方を見る。
でも、それは明らかに自分の足の形をしていなくて。
足首や膝がまるで球みたいな形をしていてそれで脚を繋いでいる。
足全体も血の通った人間の質感をしていなくて、まるでプラスチックみたいに硬くなっている。
気付けばさっきはただ体がだるいだけだったのが、今はもう両足を動かす事が出来なくなっている。
これじゃあまるで…人形みたい。
「弥生ちゃん…!?
わたしの体……人形に……?!」
春の両腕から体を支えるための力が無くなっていきそのまま背中から倒れそうになる。
弥生がそっと手を添えてゆっくり春を寝かせた。
そして両腕をおびえる春の顔の両側に付き、まるで今にものしかかろうとするかのような体勢になる。
「…可愛いよ。春……」
弥生は笑っている。
でも、瞳は何故か潤んでいて泣き出しそうにも見える。
春は両足に続いて両腕までも動かせなくなっている。
きっと足と同じように人形になっているんだ。
何でこんな事に?
……いや、理由は分かってる。原理は分からないけど。
ただ信じたくないだけ。でもそう考える以外に無い。
これは弥生の仕業だ。弥生の部屋の床に書かれた円い図面が春をこんな目に遭わせてるんだ。
…でも、一体どうして?
「確か…、三枝とのキスはまだって言ってたよね。
…嬉しいな。私もこの時の為にずっと取っておいたから」
「弥生ちゃん…!
やめてよ…こわいよ……。
なんで……なんでこんなことするの……?
…おねがい…たすけてよ……。……おねがい………」
弥生が眼を閉じて春に顔を近付けてくる。
春も反射的に眼を閉じる。そして、
「………ン…………」
二人の少女の唇が静かに重なった。
マシュマロみたいに柔らかい感触。
辺りが静まり返って、トクントクンと心臓の音だけが心地良く響き渡る。
このまま夢に落ちてしまいそうな安らぎの中で、春の恐怖心は薄れていく。
……どれくらい時が流れただろう。弥生の唇が離れていく。
すすり泣く声と同時に、春の頬に冷たい滴がポツリと落ちた。
春はゆっくり目を開ける。
「……ごめんね…春……」
弥生が泣いていた。
「…私……私……、ずっとあなたのこと…好きだった…。
…好きだったの……」
春は真っ直ぐ弥生の瞳を見詰める。
涙と一緒に、弥生の言葉の全てを受け止めようとするように。
もう、体はほとんど動かせなくなってるみたいだ。
「…あなたが三枝を好きになったって言った時、最初は本当に応援するつもりだったの…。本当よ。
でも……あなたが三枝と一緒にいるところを見ていると…苦しくなって……。
…ずっと…我慢してきた筈なのに……やっぱり…春のこと諦められなくて……
欲しくなって……どうしても……」
「……弥生…ちゃん………」
涙が言葉を妨げる。それでも弥生は、もう一度小さく「ごめんなさい」と呟いた。
それきり言葉は続かず弥生は瞳を手で押さえた。
春が口を開いた。
「……わたしもね………、弥生ちゃんのこと……好きだった……。…ずっと……ずっと……」
「……え…?」
「…でも……女の子が女の子を好きになっちゃうなんて……変だって思ったから……
…弥生ちゃんに嫌われちゃうって…思ったから……」
春はゆっくり言葉を紡ぐ。眠っているかのようなおぼろげな声で。
それでも、自分の気持ちをちゃんと伝えようと、春は懸命に声を出す。
「あの時も…、わたしの気持ち…伝えたくて……でも……
ギリギリになって…やっぱり恐くなって……勇気が…出せなくて……、
…それで…わたし……」
あの時。弥生の記憶がフラッシュバックする。
全ての始まり。春が弥生に相談を持ち掛けた、あの時。
「…好きな人ができちゃった」
「それって…うちのクラスの三枝君?」
「え…あ…うん。……どうして…分かったの…?」
あの時、春はひどく驚いていた。
そして同時に哀しそうな顔をしていたようにも見えた。
ちょっとした事で驚いたような顔をするのはいつもの事だったし…
あの哀しげな顔は、春に好きな人ができたことにショックを受けた
自分の表情が映り込んで見えただけだと思っていたから。
でも本当は…あの時春は……。
だとしたら……私は……。
「…透君に憧れてたのは本当だったから…、透君のこと好きになれば……
弥生ちゃんとも…ずっと仲良しでいられると思ったから……。
……でも…そのせいでずっと…弥生ちゃんに淋しい思いさせてたんだね……。
…ごめんね……弥生ちゃん……」
…春は何も悪くないよ。
悪いのは私だ。何もかも。
あの時、私が春の言葉を…春の気持ちを全て受け止めてあげてたら。
「春のことなら何でも分かる」なんて嘘だ。
本当に勇気が無かったのは私だ。
「……それに、透君にも悪い事しちゃったね……。
…透君……ごめんなさい……。
でも…こんなわたしに付き合ってくれて……嬉しかったよ……」
全てがもう遅い。私が全て壊してしまった。
三枝
透はもうここにはいない。
そして春も…もうすぐ…。
「……ねぇ…、弥生ちゃん……。
…わたし…もうすぐ弥生ちゃんのものになるんだよね…?
…そしたら……ずっとわたしのこと…大事にしてくれる……?」
「うん…。大事にするよ…」
「…よかったぁ……。
…わたしたち…これからもずっと一緒だね……。
……ずっと………ずっ…と…………」
「……春…?」
春はもう何も言わなかった。言えなくなっていた。
弥生は春を抱きしめる。壊れてしまわないように。そっと。
そして…まるで泣く事しか知らないみたいに涙を流し続けた。
人形になった春は、そんな弥生を慰めるように静かに微笑んでいた。
弥生の背後から黒い影が伸びる。
揺らめく炎のように捉えどころの無い影が音も無く立ち昇っていく。
その気配に気付いて弥生は背後を振り向く。
「……トリダルテ…?
…あなたのおかげで私の願いは叶ったわ。ありがとう…」
トリダルテは何も言わずにゆっくり弥生に近付いてくる。
生け贄は授けた。願いも果たした。ならばこれ以上何の用があるというんだろうか?
弥生はどういう訳か、逃げようという気も起こらずに
ただこの不定形の魔神が少しずつ接近してくるのをじっと眺めていた。
「……ン……?!」
突然、トリダルテの顔と思われる部分が急接近して弥生の唇を覆った。
この感触はさっきも味わったものと似ている。
でも、先ほど交わしたものほど柔らかくはない。
そう…これはキスだ。
弥生はトリダルテに唇を奪われているのだ。
でも、何で?
こんな事をして一体何になるの?
すっかり放心してしまった弥生は、春の人形を抱いたまま寝転がるようにして倒れ込む。
全身の力が抜けていくように体の自由が利かなくなり、
そして手や足が段々と動かなくなる。
まさか…春と同じように人形になっているの?
辛うじて首を動かしてトリダルテの方へ顔を向ける。
黒い影の中に二つの眼が光っているような曖昧な形でしか見る事の出来なかった魔神の姿が、
シルエットが晴れていくように鮮明になっていく。
その顔は弥生もよく知っている、でもここには決している筈のない人物のもので……。
「……三枝……?!
…どうして……?」
三枝
透。弥生のクラスメートであり春の彼氏だった男子。
トリダルテとの契約を交わすための生け贄として教室の窓から落ちたはずなのに。
今、その彼がまさにトリダルテの姿となってここにいる。
すっかり混乱している様子の弥生を無言で眺めている透。
ついさっき学校の校舎から突き落とされたという事など
全く気にしていないかのようないつも通りのポーカーフェイスだが、
そこには人ならざるものの気配を感じさせる。
「…深山。俺、本当はお前のことが好きだったんだよ。
でもなかなか言い出せなくてな。
そしたら春に告られて…、あんまり必死だったから断れなくてさ。
そのまま付き合ってくうちに段々春のこと、可愛いって思えてきて、
でもやっぱり深山のことも気になって…。
どうしたらいいか分かんねーでずっと悩んでたんだけど、そしたらアイツが語り掛けてきて…。
それで俺、決めたんだ。二人とも俺が貰うってな」
「……でも……トリダルテに願いを叶えて貰うには…生け贄を……」
透は懐からあの本を取り出す。
表紙もページもすっかり血を吸って赤黒く染まっている。
「深山、お前は一つ勘違いをしていたんだ。
トリダルテと契約を交わすには、契約者自身が生け贄にならなければいけないんだ。
タチの悪いことにこの本にはそんな事、一言も書いてなかったけどな」
「……………!」
…どこで誤ってしまったのだろう?
春の告白を受け入れられなかった時?
魔神を呼び出してしまった時?
三枝を窓から突き落とした時?
一体…どこで……。
……もう…意味の無い事か。過去なんて振り返っても。
弥生の目の前では春の人形が無言で倒れている。
自分ももうすぐ人形になる。春と同じ人形に…。
そう考えると、弥生は何故か嬉しくなってくる。
もうどうなっても構わない。
たとえ物言わぬ人形に変わり果て、三枝に弄ばれる運命なのだとしても。
春と一緒なら…それだけで幸せだから…。
…意識が途切れる瞬間、春の声が聞こえた気がした。
しんと静まり返った弥生の部屋。
透は二体の人形を丁寧に抱き上げる。
どこからか人ならざるものの声が聞こえてくる。
「これで汝の願いは果たされる。
さぁ、今こそ我に捧げるのだ。汝の魂を」
「なぁ、これから俺はどうなる?
…やっぱ地獄行きとかか?」
「地獄か極楽か、あるいは永遠の虚無か。
それは我の知るところではない。
だが、未来永劫、汝らは共に在り続ける。それだけは保障しよう。
それが契約であるからな」
「…そうか。…ならいい」
二体の人形と人ならざるものは
燃え尽きる炎のようにその姿を朧にしながら消えていった。
歪んだ形で形成されたトライアングル。
でも、その形が崩れる事はない。
いつまでも。