作:闇鵺
お昼休みの教室内。
叶恵(かなえ)は机に突っ伏してぐったりしていた。
この日は今年最後の水泳の授業があった。
叶恵は今年も“カナヅチ叶恵”という
ありがたくない汚名を返上する事無く、夏を終えるのであった。
「…いいもん。泳げなくたって」
「でもぉ、泳げないと大人になっても塩素の臭いが軽くトラウマになったりするんだよぉ。
お風呂場の掃除とか出来なくなっちゃうよー」
「そんなピンポイントなトラウマなったりしないもん…」
でも実際、お母さんがお風呂場の掃除をした時なんかに
塩素系洗剤の臭いが残ってたりするとプールの事思い出して憂鬱な気分になる事はある。
「それにねぇ、ずっとカナヅチのままだとそのうち格下げされちゃうんだよぉ」
「格下げ?
何に?」
「凍ったバナナ」
「釘を打つしか能が無いっ!?」
……ていうかそれは嘘だろう。
でも…やっぱり泳げるようになった方がいいのかなぁ……。
叶恵は机の横にぶら下がっているプールバックを足でつついた。
プールの疲れが出てきたのか叶恵は段々ウトウトしてきた。
そこへどこからか叶恵を呼ぶ声がする。
「ねぇ。あなた泳げないの?
じゃあ、わたしが泳げるようにしてあげる。
放課後、プールの前で待ってるわ」
「……んぇ?
今、なんか言った…?」
「ウフフ……」
クスクスクスクス…。
周りから笑い声が聞こえてきて叶恵は目を覚ました。
クラスのみんなが叶恵の方を向いてクスクス笑ってる。
叶恵の正面で、先生がチョークで黒板を指している。
「この問題を解いて下さいと言いました。
解けなかったらしばきますとも言いました」
笑ってるけどちょっと引きつって見える。
どうやら居眠りしている間に授業始まっちゃってたらしい。
「………ぇ……」
絶体絶命っ!!
放課後、叶恵は先生にしばかれた頭を撫でながら廊下を歩いていた。
知らず知らずの内に足がプールの方へ向かっているのに気付く。
夢の中のことだし、まさかね…。
そうは思いつつもやっぱり気になっていたのだ。
「…あれ?
開いてる……」
学校のプールは授業の時以外、鍵が掛かってて入れない筈なのに。
叶恵は恐る恐る中に入る。
「来てくれたのね」
「わぁっ?!」
叶恵が振り向くとそこには髪の長い女の子が立っていた。
手には小さなお人形を大事そうに持っている。
着ている紫色の服はフリルなんかが付いたりして
どう見ても季節外れなのにあまり暑そうには見えない。
「…あなたがわたしを呼んだの?
わたしを泳げるようにしてくれるって…」
「えぇ。だから早く準備をしてきて。わたしは先に行って待ってるから」
そう言って女の子はプールの方に歩いていった。
叶恵は更衣室で水着に着替えてプールサイドに上がった。
プールサイドでさっきの女の子が水着姿で待ち構えていた。
一体いつの間に着替えたんだろう?
あんな着替えに時間の掛かりそうな服で…。
女の子は叶恵の格好を見るとクスクスと笑い出した。
「フフフッ…なぁに、その格好?」
「だって…さむいんだもん……」
叶恵は今、着替える時に使うタオルを巻いたままのてるてる坊主のような格好をしている。
叶恵にしてみればこんな寒空の中で堂々としているその女の子の方が稀有に見えるというものだ。
「必要無いわ」
バサッ
「あ゛ーーーーーーー!!?」
女の子が素早くタオルを剥ぎ取った。
叶恵はなけなしの衣服を奪われたかのような悲鳴を上げてその場にうずくまる。
女の子は見学者用のベンチにちょこんと座らせてある人形に
叶恵から奪ったタオルを掛けてあげた。
人形にまで水着を着せてあるあたり芸が細かい。
「さぁ、入りましょう」
「ま、待ってよ…!
まずは準備運動して体を温めてから……ね?」
叶恵は体操するみたいに両手を振り回してなんとか誤魔化そうとする。
今更だけどやっぱりこんな寒い中、プールになんか入りたくない。
今日の体育の授業中だっていつ凍え死ぬかなんて思ったほどだもの。
でも女の子はそんなのお構い無しに叶恵の腕をパシッと掴む。
女の子の手は氷みたいに冷たくて、叶恵はイヤイヤととっさに手を振り解こうとするが
まるで接着剤でくっ付けたみたいに女の子はしっかり叶恵の腕を掴んで放さない。
女の子は叶恵を巻き添えにするようにして、背中からプールに飛び込もうとする。
その見た目からは想像も付かないくらい強い力で叶恵はグイと引っ張られる。
「え、…ち、ちょっと…まだ心の準備が…うぁっ!?」
バランスを崩してプールに向かって倒れ込む瞬間、叶恵は女の子と目が合った。
その黒い瞳は無限の闇に染まっていて、
叶恵はその中に引きずり込まれていくような感覚を感じていた。
ザッパーーン…!!
女の子二人が飛び込んで水飛沫が高く舞い上がった。
その瞬間、水面がまるで別世界への入り口であるかのように叶恵の目の前の景色も一変した。
…多分、どれだけ準備をしたとしてもこの展開を予想できる人なんていない。
(…えっ?!
何これ…!?
ここ、学校のプールじゃないの……!?)
肩に浸かるか浸からないか…プールの深さなんてだいたいそれぐらいの筈。
それに今は放課後とはいえまだ日が沈み切るには早い時間。
でもまるで海の底みたいに辺りは真っ暗で、
どんなに下の方を見てもプールの底が見えてこない。
手を握り、向き合ったまま沈んでいく女の子の姿以外には何も見えない。
叶恵は女の子に手を引かれたままどんどん深く沈んでいく。
何メートルも…何十メートルも……。
「ね、ねぇ…一体何がどうなってるの…!?
お願い…助けて……。もぅ…手を放してよぉ…!!」
叶恵はまだ潜る事さえ出来ない筈なのに、不思議と息が苦しくならない。
でもその事に気付けるだけの余裕は叶恵には無かった。
水の中で必死に女の子の手を振り解こうとする叶恵。
すると、さっきはあんなにしっかりと叶恵の腕を掴んでいた女の子があっさりと手を放した。
「あらあら。ダメよ、そんなに暴れたら。カナヅチみたいに硬くなってしまうわ」
「…え……?」
女の子の手が離れた瞬間、思い出したかのように叶恵の全身を強烈な寒さが襲う。
周りを覆い尽くす水がやけに重苦しくて、どんどん手足の動きが鈍くなっていく。
「…さむい……こお…ちゃう…よ………たす……け……て………」
女の子の姿がガラスを透して見ているみたいにぼやけて見える。
心臓の動きがゆっくりになって…体中が硬くなっていって……。
凍り付いた体はさらに水の奥深くまで沈んでいく。
救いを求めるように伸ばした手も、何も触れる事無く冷たく覆われていく。
どんどん高い所へ遠ざかっていく女の子の姿を目に映しながら、
叶恵は今になって、女の子の水着のゼッケンに
835
…そう書いてある事に気が付いた。
月が美しく輝く夜。
水泳の授業は今日でもう最後なのに、プールにはまだ水が張られている。
また一年、来年の夏まで使われることの無い事を惜しむかのように。
プールの門は堅く閉ざされている。
その奥で繰り広げられる遊戯を誰にも邪魔させないために。
髪の長い女の子が手に人形を抱いて星空を眺めるように水の上を漂っている。
その傍らには大きな氷の塊が浮かんでいて、中に女の子が閉じ込められている。
「知ってる?
“泳ぐ”っていうのは水と一つになる事なの。
あなたは永遠に水と一つになったのよ。すごくいい気持ちでしょう?」
女の子が氷の塊に語り掛けても氷の中の少女は答える事は無い。
ただ水の流れに身を委ねて漂い続けるだけ。
空に向かって投げ出された手は星を掴んだとしてもすり抜けてしまいそうなくらい頼り無く、
生気を失った瞳には月の光が一段と寒々しく映るのだった。