Maze in Dolores I

作:闇鵺


 彼女の名はドロレス。
私の主であり、最愛の人であり、そして……



 初めまして。私、キマイラと申します。
このお屋敷の執事兼、召し使い兼、料理長兼……まぁ、色々とやっているもので御座います。
そして僭越ながら私がこの物語の案内役も務めさせて頂きます。
 私の容姿についてですが、御自由に想像して頂いて構いません。
まぁあえて言う事があるとすれば、私は男です。
年齢は…二十代中頃としておきましょう。それなりに色男に御座います。
お美しい我が主に対し、私が見窄らしいようでは釣り合いが取れませんので。
そして、私は何事も形から入る性質なもので…伊達眼鏡を常に身に着けております。
…私の紹介などこの程度で良いでしょう。

 さて、只今は小鳥のさえずる声も清々しい朝に御座います。
私の仕事はこのお屋敷の主を起こす事から始まります。


キマイラ:…ドロレス様。朝ですよ。起きて下さい。


 主の寝室の扉を叩き、声を掛ける。
たったそれだけの事で我が主の眠りを覚ませる筈が無いであろう事は私も承知の上である訳で。
だとしたら直に起こすしかないでしょう。
私はそっと寝室のドアを開けて中に入ります。
そしてカーテンを全開にして朝の光を部屋中に届けます。


ドロレス:……ん……ぅん………。


 突如として差し込んだ光に、鬱陶しそうに寝返りを打つ可愛らしい女の子。
彼女こそがこのお屋敷の主、ドロレス嬢に御座います。
 世界有数の機織りであっても紡ぎ出す事は出来ないであろう金糸の如きブロンドヘアー。
空の高さ、海の深さよりも荘厳なラピス・ラズリのような瞳。
強く抱き締めたい衝動を生みながらも、触れるだけで崩れてしまいそうな華奢な躯。
そして、この世のあらゆる穢れたものに一度として触れた事の無い小さな諸手に
桃色のウサギのぬいぐるみを抱きながら、
人形のように愛らしい我が姫君はすやすやと寝息を立てておられます。


ドロレス:……んー……あと3512秒……。

キマイラ:…さすがに58分32秒もお寝坊をさせる訳にはいきませんね。


 ドロレスお嬢様は眠そうなまぶたを擦りながら、渋々ベットから起き上がります。
少々御不満そうな寝起き姿も、私の目には可愛らしく映ってしまいます。
片腕にウサギのぬいぐるみを連れているというのもまた絶妙。


ドロレス:…しょうがないじゃない。昨夜はウィンが寝かせてくれなかったんだから……。


 “ウィン”というのは昨夜一晩、お嬢様の夜の御供を果たした桃色ウサギの名前に御座います。
ドロレスお嬢様は虹の七色に桃を加えた八体のウサギのぬいぐるみをお持ちでいらっしゃいます。
彼等には順番が決められていて、一日毎にお嬢様の御供を務めるのです。


ドロレス:バイバイ、ウィン…。


 お嬢様は部屋の隅に並べてある七体のウサギの一番右側の空席となっている場所に
八体目である桃色のウサギを名残惜しそうに鎮座させ、
そこから最も遠くの位置にある、一番左の藍色のウサギを手に取りました。
 ちなみに、ウィンに限らず彼等にはそれぞれ名前が付けられているのですが、
ウサギのぬいぐるみに付ける名としてはあまりに奇抜なものが多く
お嬢様が何を思ってそのような名前を付けられたのか私には分かり兼ねます。


ドロレス:おはよう。今日一日、よろしくね。フィロシャスオーグ。



 さて、微笑ましい朝の情景はここまでにして、そろそろ本筋を進めると致しましょう。
このお屋敷の地下には、何故か広大な迷宮が広がっているのです。
いつ、誰によって作られたのかは分かりません。
ですがこの迷宮の最深部にまで辿り着いた者には永遠の美が与えられると云われています。
 今日、ドロレスお嬢様はこの地下迷宮に挑戦なさるのです。
齢十二とはいえお嬢様もれっきとした女性。
「永久に美しくありたい」というのは女性ならば誰もが一度は思う願望でしょう。


キマイラ:ではお嬢様…、お気を付けて……。

ドロレス:大丈夫よ。あたしにはフィロシャスオーグがついているもの。


 お嬢様は藍色ウサギをお供に、堂々と地下への階段を下りていきます。
尚、本来ならば私ことキマイラの出番はここで終了なのですが
私は物語の案内役という役目も仰せ付かっております故、
お嬢様の応援も兼ねて、引き続き私の案内で物語を進めていきとう御座います。

 この地下迷宮、煉瓦による頑強な壁が天井にまで連なっており、
よじ登ったり力任せに突き破ったりという無粋な方法を採る事はまず不可能でしょう。
その煉瓦が、発光作用を持った“魔法照明”と化しているのか
内部は意外なほど明るく、視界に不自由するという事は無さそうです。
 この迷宮がただ広いだけの迷路であるなら攻略は決して難解なものではありません。
理屈で言えば、右か左の壁伝いに進んでいればいつかは必ずゴールに辿り着けるのですから。
それが決してそうはいかないのは、ひとえに彼等の存在があるからです。


少女の声1:…与えましょう……永遠の美しさを…あなたに……。

少女の声2:…さぁ…おいで……わたしたちの所へ……。

少女の声3:……おねえちゃん……あたたかそう………。


 …お聞きになりましたか?
美しく澄んでいながら、どこかおぞましい寒気を感じさせる三人の少女の声を……。
「永遠の美しさを与える」などと申しておりますが、
もちろんここが迷宮の終着点という訳ではありません。
彼女達はこの迷宮に巣喰う人ならざるもの達…そう、魔物と呼ぶのが相応しいでしょう。
氷が自我を持ち、人の形を成したような白く美しい三人の少女は
冷艶なる笑みを浮かべてドロレスお嬢様を見詰めています。
 初めに声を掛けた者はお嬢様より少し年上に見える姿をしており、
次に声を掛けた者は大体お嬢様と同じぐらい、
残る一人はお嬢様よりやや幼い年齢の少女に見えます。
彼女達の容姿は実によく似ており、三人姉妹…と言うより、
一人の少女の成長過程を段階的に表しているかのようです。
便宜上、ここから先は彼女達の事を(見た目の上での)年齢順に長女、次女、三女と呼ぶ事に致します。


ドロレス:……っ!


 とっさにお嬢様は彼女達から身を隠すように脇道へと駆け出します。
当然でしょう。広大な迷宮にお一人で挑もうとする勇気はあるものの、
お嬢様には何の戦闘技術も無い、ただの女の子なのですから。


長女:…与えましょう……永遠の美しさを…あなたに……。

次女:…隠れても無駄よ……。…わたし達からは逃げられない……。

三女:……まって………。


 氷の三姉妹から逃げるお嬢様はT字路に差し掛かった所で突然足を止めました。
追っ手はそれほど俊足ではないらしく、お嬢様が振り返ってもその姿はありません。


ドロレス:フィロシャスオーグ、あたしを守って…!


 ずっと手に抱いていた藍色ウサギと向き合うと、
お嬢様はそっとフィロシャスオーグの額に口付けをしました。
そして、躊躇いがちにウサギのぬいぐるみを地面に置き去りにします。
 …するとどうした事でしょう。
フィロシャスオーグが魂を持ったかのように独りでに起き上がり、
そしてよたよたと右へ曲がる道を進んでいきます。


ドロレス:頼んだわよ。フィロシャスオーグ…。


 野に放ったウサギを見送るような表情で呟くと、
お嬢様はフィロシャスオーグに背を向けて左の道に向かってまた駆け出しました。
 そう、ドロレスお嬢様はただ寂しいからなどといった理由で
ウサギのぬいぐるみをお供にしていた訳ではありません。
お嬢様の持つ八体のぬいぐるみは皆それぞれ不思議な力を宿しており、
それはお嬢様の口付けによって発動されるのです。
そしてこの、藍色のフィロシャスオーグの持つ能力とは……。


「ハッハッハッハ! ワタシハココヨ!」


 今のは確かにドロレスお嬢様の声です。
ですがそれはお嬢様の口から発せられたものではありません。
 フィロシャスオーグの能力…それは、
自力で動き回り、お嬢様の声を真似る事でお嬢様の身代わりとなる事なのです。
 単純なようですがこれがどうして効果覿面で、
三姉妹の長女、遅れて次女は何の疑いも無しに先程のT字路で左に進路を取りました。
三女に至っては他の二人に輪を掛けて足が遅いのでまず追いつかれる事は無いでしょう。
その隙にお嬢様はどんどん迷宮の奥深くへと進んでいきます。


ドロレス:…ここまで逃げれば、もう追って来れないでしょ…。


 軽く一走りした後なので、お嬢様の体温もいささか上昇しております。
なので、辺りの空気が冷たくなっているという事にお嬢様は気が付きませんでした。
まぁ気付いたとしても、ここがあの三姉妹の制御下にあるからだろう
ぐらいにしか思わなかったかも知れませんが…。
 お嬢様がホッと胸を撫で下ろそうとしたその時です…。

 ツルーーッ

 どしゃっ!!


ドロレス:ふぎぁ!?


 踏み締めた足が滑り出し、バランスを崩したお嬢様は
見事としか言い様の無いほどの顔面衝突をしてしまいました…。
お嬢様…なんとおいたわしい……。


ドロレス:い゛ったぁぁ……! …何なのよぉ……。
     …これ……氷…? …床が…凍ってる……。


 そこは一面の氷の床。恐らくトラップの一つでしょう。
顔を押さえつつ、涙目のお嬢様は何とか立ち上がろうとするのですが
氷の床はこれでもかというほどにツルツルで、上手く立つ事が出来ません。
立つ事も出来ずに立ち往生とは、当のお嬢様にして見れば実に面白くない状況でしょう。


ドロレス:…………!


 洒落があまりにつまらなかった訳ではありませんよ。
ですが、お嬢様は今確かに寒気を感じておられました。
恐る恐る振り返ると、お嬢様よりも小さい氷のような色白の少女が
嬉しそうにお嬢様に歩み寄ろうとしていました…。


ドロレス:……あ………。

三女:……おねえちゃん…みつけた………。


 どうやら先程転んだ時の声で居場所がばれてしまったのでしょう。
足が遅いのも幸いしたのでしょうか。フィロシャスオーグの陽動に惑わされる事も無かったようです。
 逃げようにもその場から移動する事すら叶わないお嬢様に対し、
三女は滑り易い氷の上も物ともせずお嬢様に近付いていきます。
そして、甘えるように両手を伸ばし、その身の全てを捧げるかの如く
お嬢様の背中に抱き付きました…。


ドロレス:ひっ…?!


 服を着ているにも拘らず、まるで地肌に直接氷の塊を押し付けられているかのような
強烈な冷気がお嬢様の小さな体を侵蝕していきます。


三女:…おねえちゃん……あたたかい……。

ドロレス:……ひいぃぃん………つめたいぃぃぃ………。
     …いやぁ……はなしてよぉ……。


 お嬢様の背中に抱き付いたまま離れようとしない三女は恍惚とした表情になり、
そしてお嬢様の体に取り込まれていくようにして、お嬢様と一体化しようとしています。
三女の冷気が入り込んでいく度にお嬢様の体から熱が失われていきます。


三女:……ずっと……いっしょ………。

ドロレス:…いや……いやああぁぁぁ……。


 お嬢様と三女の体が完全に一つとなった時。それがきっかけとなったのでしょうか。
囮のフィロシャスオーグを追い続けていた長女と次女がゆっくりと足を止めました。


「…ア、アレ? ワタシハココヨー! ココダッテバー!」


 長女と次女はきびすを返し、お嬢様の振りをしたフィロシャスオーグから離れていきます。
そしてあのT字路を直進してお嬢様の元へ…。


ドロレス:…ううううう……ささささむいいぃぃぃ……。


 三女の冷気を全て受け止めたお嬢様は、それでもまだ健気に歩を進めておられます。
三女と一体化した副作用でしょうか、氷で足を取られる事は無いようですが
歩く速さは非常に遅く、もはや御自分がどちらに向かわれているのかも分からず、
とにかく少しでも動いていなければ今にも凍り付いてしまいそうな様相です。
 そんな寒さに打ち震えるお嬢様の元に、更なる冷気がじわりじわりと近付きつつあります。
お嬢様の背後から透き通った氷のような少女の声が響きます…。


次女:……ふふふ……。…言ったでしょう……わたし達からは逃げられないって……。


 御耳に次女の声が届こうとも、お嬢様は歩く事を止めません。
元々、良くも悪くも“諦める”という事を知らないお嬢様ですが
今となってはそんな思考さえも凍ってしまい、
本当にただ歩くという事しか出来なくなっているのかも知れません。
しかしそれも悪足掻きにすらならず、次女が一歩また一歩と歩む度にお嬢様との距離は狭まっていきます。
 本来ならお嬢様と次女の歩幅には殆ど差など無いのですが、
今のお嬢様の歩きはまるで摺り足のように足が地面から離れず、
そして何とかして持ち上がり前へと進もうとする足も
普段の半歩ほどの距離さえ進まないうちに地面へと吸い付いてしまうのです。


次女:……つかまえた………。

ドロレス:……………!


 次女の手が背後から回され、絡み付くようにお嬢様の体を抱き締めます。
またしても強烈な冷気がお嬢様の全身を駆け巡り、お嬢様はもはや声を出す事さえ出来ません。


次女:…あの子とばかりずるいわ……。
   ……わたしとも…一つになりましょう……。


 張り付くような吐息を浴びせながらお嬢様の耳元で囁きます。
そして、お嬢様の体中の熱を奪い尽くした時…お嬢様の体に変化が生じました。

 ……ピキ……ピキ…ピキ……

 次女と密着した背中から、そして次女の手に抱かれた胸や腰の辺りから、
お嬢様の体は色を失っていき、あの姉妹のような白いものへと変わっていきます。

 お嬢様の体が、凍り付いていくのです。

 次女の姿が朧げになっていくのに比例してお嬢様の凍結も進行していきます。
足元が凍り付いてしまった事により、お嬢様の体の自由は完全に剥奪されました。
金糸のようなブロンドはもはや微塵もなびく事は無く、
華奢な躯は儚さと脆さを増していきます。


次女:……あぁ………。

ドロレス:…………………。


 喘ぐような囁きを最後に、次女の姿はお嬢様の背後から消失しました。
ドロレスお嬢様は広大な迷宮のど真ん中で、白い氷の彫像と化しています。
ただ、端整な人形のようなお顔はまだ人間としての色を保っており、
瑠璃色の瞳はいつ終わるとも知れぬ迷宮の奥深くを見詰めています。
 視界の端を横切る一つの影。
氷の三姉妹の最後の一人、長女はお嬢様の前へゆっくり歩み出ると、
実の妹を慈しむような微笑みを浮かべて瑠璃の瞳と見詰め合います。


長女:…悠久に融ける事の無い、凍て付く美であなたを結んで差し上げます……。
   ……気に入って…頂けるかしら……。


 長女は笑みを崩さず、お嬢様のお顔に両手を添え…そして……
そっとお嬢様と唇を重ねました……。


ドロレス:………ん…………。


 愛しいものに口付けるという行為はお嬢様にも馴染みの事であり、
先程の藍色ウサギがそうであったように、額なり頬なり、
お嬢様はご自身が愛しいと思ったものには積極的に、その柔らかい果実のような唇をお付けなさるのです。
(恥ずかしながら、私もその恩恵に与かった経験が御座います)
 ただ“深い口付け”というものに関しては、
お嬢様は知識として修めてはいながらも、実際に経験する事は御座いませんでした。
 …お嬢様の唇を介して、冷たく柔らかいシャーベットのようなものが入り込んできます。
シャーベットはお嬢様の舌に触れると、優しく愛撫を始めます。


ドロレス:(……くすぐったい………)


 口の中を弄ばれるというこれまで味わった事の無い経験を、お嬢様は快感に思われました。
お嬢様はされるがままの自分に悦びを感じているのです。
全身を覆い続けていた冷気にも馴染んでしまったのか、
柔らかなシャーベットに弄ばれ続ける舌を中心に
人間として存在していた最後の部分が徐々に冷たい氷に変換されていきます。
そしてその事にお嬢様は微塵の恐怖も感じてはおりません。


「…むしろ…このまま……こおりついてしまいたい……。……えい…えん…に……」


 お嬢様が氷の彫刻として完成すると同時に、
長女は唇と舌を合わせたまま、お嬢様と一つとなるように消えていきました。

 …そこには、氷像となったお嬢様が唯一人、立ち尽くしています。
夢を見ているような虚ろな瞳と薄く開いたままの唇が、
まるで姉妹達の寵愛がまだ続いているかのように思わせます。
凍て付いた美に包まれたお嬢様はもちろん、そのお嬢様の姿に目を留めた者までも
その場を動く事は出来なくなることでしょう…。
冷艶の虜となって……。



 …お嬢様、残念ですが今回はここまでのようです。
氷像となったお嬢様も大変美しいのですが、ここは迷宮の終着点ではありません。
また次回、挑戦する事と致しましょう。

永遠の美を求めて……。


To be continued


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