孤高のサウザンナイト 第五話『異次元大蜘蛛ディメンジュラ』

作:闇鵺


 ――退屈だったから、レンタルショップで古いSF物のDVDを借りたの。
ある洋館に迷い込んだ数名の男女が、その館の主である蜘蛛の怪物に襲われるっていう話。
なかなか面白かったわ。でも、だからってね……

 なにもあたしが蜘蛛の怪物に襲われなくたっていいと思うのよ…――。



 ある夜の事。星降千夜は夜中に目を覚ました。
と言っても単にトイレに行きたくなっただけなのだが。
暗闇で眼鏡無しでも自由に行き来できる程に住み慣れた家の廊下を辿ってトイレに向かう。
 いくら寝る前にホラー物のDVDを見ていたからといって、
中学生でしかも一人暮らしをしている千夜が、暗闇を恐れてトイレに行けないなどという事は無い。
当然、特に何があったということも無く、用を足して部屋に戻る。
そして再び眠りに就こうと寝室のドアを開けた時、“それ”は眼前に現れた。

「…………っ?!」

 “魔法少女”という、ほんの何日か前までは
空想の産物だと思っていた存在に変身する力を持つ千夜でも、
目の前に蠢く“それ”の突然の出現には息を飲むしかなかった。
 体長2〜3メートルはありそうな、怪物と呼んで間違いないくらいに巨大な蜘蛛。
それこそ、例のドラマに出てきた大蜘蛛を思わせるような蜘蛛の怪物が
千夜の部屋であった場所から顔を覗かせている。

 クヮカカカカ………カカカカカカ………

 赤子の呻き声にも似た不気味な声で鳴きながら、
大きなギラギラと光る目で、壁に背を付けて立ち尽くす千夜を見詰めている。
 千夜は夢を見ているのだと思った。
もしくは眼鏡を掛けていないから幻を見ているのだと。
あるいはこうも考えた。またいつもの三下臭い魔物が何か仕出かしたのだと……。
 あれこれ必死に考えようとして、そのことごとくが恐怖によって打ち消されていく。
平静を保つ為に色々な説を考えても本能がそれを否定するのだ。
これはそういったものではない。
自分は今、蜘蛛の怪物に襲われようとしているのだと。

「……あんた………なに……?」

 心臓が銅鑼のように激しく鳴り響き息が苦しくなっていくのを感じる中、必死に声を絞り出す。
ここで無闇に騒いだりせず虚勢を張ろうとするのは彼女の度胸がなせる業か。
 見ればこの蜘蛛の大きさは部屋の扉の幅よりも明らかに大きい。
壁を壊しでもしない限り、襲い掛かってくることは無いだろうと
安心材料を見付けて平静を取り戻そうとする千夜。
ではそもそもどうやって部屋に入り込んだのかという疑問は失念しているのだが。
 大蜘蛛は扉の狭さなど意にも介さないかのようにその巨体を震わせて、
千夜に向かって真っ白い糸を吐き出した。

「……あっ!?」

 逃げる隙も無く、糸は千夜の体に何重にも巻き付いた。
手で剥がそうとしても糸には粘り気があり、さらに糸の束そのものが
太い縄のように頑丈に絡み合って、引き千切って逃げることもできない。

 クク…カカカ……!

 大蜘蛛は糸に絡まれた千夜を部屋の中へと引きずり込む。
悲鳴を上げる隙も無く千夜は大蜘蛛の元へ引き寄せられ、

バタン!

…と部屋の扉が閉じた。

 勢い余って閉じた扉がゆっくりと開く。
部屋の中には巨大な蜘蛛もその部屋の主である少女の姿も無く、
ただ夜の静寂がひっそりと流れるだけだった。



 目を開いているのか閉じているのか分からなくなるような暗闇。
ただ、目を閉じていると見えないものが、目を開いていると見ることができる。
そんな漆黒の世界で千夜は目を覚ました。
 体中に白くて粘り気のある糸が貼り付いていて
特に手足には十字架に磔にでもするかのようにぐるぐると巻き付いて、
まるで蜘蛛の巣に掛かった蝶だ。
 考えるまでもなく、あの蜘蛛の怪物に捕まったのだろう。
そうするとここは蜘蛛の巣穴のような所であろうか。
見るとあちこちに蜘蛛の巣が張られている。
そしてその所々に、自分と同じように蜘蛛の巣に磔にされている少女の姿も…。

「……あれ…私…どうしたんだろう……」

「…え、なに? ここ…どこなの!?」

「うわぁ…なにこれ…? 動けないよぉ…」

 目を覚ました少女達が次々と戸惑いの声を上げる。
下は小学校低学年から上は高校生ぐらいまで、
全員が少女である事以外には特に共通点は見付からない。
 恐らくみんなあの蜘蛛に攫われてきたんだろう。
そして肝心の蜘蛛の姿はどこにも見当たらない。
どこかでまた獲物を探しているのだろうか。

 ポタタッ

 不意に、千夜の頭上から雫が降り掛かる。
何かと思って上を見上げると、そこでは千夜が見た限り最年少と思われる女の子が涙を流していた。

「……うぅぅ……こわいよ……ママ…たすけてぇ……」

 あの女の子の流した涙が落ちたのか。
自分の倍以上の大きさもあろう大蜘蛛に攫われるという、悪夢もいいところの災難に遭っているのだ。
同年代の少女の中では比較的肝が据わっている方だと思う千夜でさえ戸惑いを隠せない状態なのに
あんなに小さな子供なら恐怖のあまり涙も出るだろうと思いかけたがちょっと待て。

(あの子のパジャマのズボン…濡れてない…?)

 そう言えばさっき当たった雫はほんのり生温かかった気がする。
 …そりゃああんなに小さな子供なら恐怖のあまり涙も出るし、“そういう事”もあるだろう。
想像したくもないが、もし自分があの蜘蛛に出くわしたのが寝室ではなく
用を足す直前のトイレとかだったりしたらどうなっていたか分かったもんじゃない。
でも…だからって…、なにも自分の真上でしなくてもいいではないか。
 やっぱり夢を見ているのではないのかと本気で現実逃避しそうになった千夜の元に、
冷や水を浴びせるような悲鳴が響く。

「きゃああああぁぁぁぁ!!」

 悲鳴のする方に目を向ける千夜。そこには…
あいつだ。自分を攫ったあの大蜘蛛が再び姿を現して、
悲鳴を上げた少女に迫っていく。
 サーカスの綱渡りの綱ほどの太さしかない蜘蛛の糸の上を
その巨体からは想像もつかないくらいに流暢に進む様は実に奇妙で怪物然としている。
 蜘蛛の糸に絡め取られ逃げることのできない少女の元に瞬く間に大蜘蛛は辿り着き、
そして赤ん坊が呪詛の言葉を吐くような不気味な鳴き声を上げながら
怯える少女の首筋に牙を突き立てた。

「あぐっ…!」

 少女の首に噛み付いた蜘蛛はそのまま少女の首から離れない。
何かを吸い取っているようだ。よくあるパターンとして血だろうか。
吸われるがままになっている少女は特に血色が悪くなっていく様子は無い。
でも間違い無く少女は苦しんでいる。

「……あ…ぁ……ぁ………」

 少女の目は徐々に虚ろになっていき、
泣き叫ぶ声も聞こえなくなって、代わりに唇の端からツーっと涎が零れた。

「……や………め…………」

 絶え絶えになりそうな息と一緒に懇願の言葉を漏らすが、
その言葉はもう傍らの蜘蛛にさえ届かない。
もっとも、届いたところでその毒牙が離れていくような事は無いだろうけれど。
 一人の少女が餌食になっていく様を、千夜を始め他の少女達は怯えながら眺める事しかできない。
次は自分かも知れないという恐怖に震えながら。
これはスクリーンを隔てたホラームービーなどではない。
今、目の前で起こっている惨劇なのだ。
 蜘蛛が少女の首から離れる。
何かを吸い尽くされたらしい少女は力無くぐったりとしている。
その時、襲われた少女の近くにいる別の少女が
信じられないものを見たかのような悲鳴を上げる。
その悲鳴の理由は千夜達他の少女もすぐさま目にすることとなる。

「何よ…あれ…。あの子、石になっていく……」

 少女の足元から少しずつ、体が色を失って薄黒くなっていく。
あれよと言う間に少女の体の侵蝕は広がっていき、
驚きと恐怖の視線が見守る中、少女は物言わぬ石像と化してしまった…。

 少女が完全に石化してすぐに大蜘蛛は次の獲物に向かって移動を開始した。
声を上げてしまったのが仇となったのか、蜘蛛が次の獲物に選んだのは
最初に石化に気付いた少女である。

「や、やだぁ! 来ないでぇ!!」

「だ、だれか助けてぇ!!」

 大蜘蛛に襲われた犠牲者が哀れにも石となってしまった事、
そして蜘蛛が次なる獲物に襲い掛かろうとしている事、
囚われの少女達の目の前で次々と恐ろしい出来事が起こり
少女達は口々に悲鳴や泣き声、助けを呼ぶ声を上げる。
だから、気付くのにいささか時間が掛かった。
恐怖に打ちひしがれる少女達にさらなる絶望が押し寄せているという事に…。

「いやあああああぁぁぁぁ!!」

 大蜘蛛のいる位置からいくらか離れた場所から一際甲高い悲鳴がする。
千夜がそちらを向くと、声の主である小さな女の子の背後で黒い影のようなものが蠢いている。
それは何匹もの小さい蜘蛛の群れだ。小さいと言ってもそれはあの巨大蜘蛛と比べればの話で、
一般に大型の蜘蛛として知られるタランチュラ並みの大きさはある。
そんな蜘蛛の群れがか弱い女の子の首筋や腕や足に、次々と牙を突き立てていく。
 化け物蜘蛛は一匹ではなかった。
差し詰めあの大蜘蛛が親で、新たに現れた蜘蛛達が子蜘蛛といったところか。
そしてこの時千夜に浮かんだ悪い予感はすぐさま的中した。

「いやぁ! 来ないで! 来ないでったらぁ!!」

「やぁん…気持ち悪いよぉ……」

「うわぁぁん……こんなの…やだよぉ……」

 あちらこちらで子蜘蛛の群れが這い出して次々と少女に襲い掛かる。
糸に囚われた少女の躯に悪魔の手のような蜘蛛が群がり、纏わり、そしてその柔肌に次々と毒牙を突き刺す。
服が邪魔をして届かない所には穴を開け、引き裂いてでも。
そして乙女の体内に満ちる何某かの蜜を思う様に貪る。
少女達の悲鳴や絶望の声も、この貪欲なる蜘蛛達にとっては晩餐を彩る演奏でしかない。

「……いや…だ……って……言って…るの……に……」

「………もぅ……ら………め………」

 声が失せて蜘蛛が離れればそこにあるのは少女ではなく、少女の形をした石の像。
恐怖や苦痛、虚脱等の負の感情に顔を歪め、衣服はボロ切れのように引き裂かれ、
それでもなお蜘蛛の糸にその身を囚われ続ける姿は、言わば哀れな芸術品である。
 もしここに正義の味方がいるのなら、たちまちあの蜘蛛の群れを退治してくれるに違いない。
だがここにはそんな力を持った正義の味方はいない。
悪の使者ならいることはいるが彼女もまた囚われの身なのである。

 足先に細く冷たい、そして僅かにくすぐったいような感触が伝わる。ついに蜘蛛が千夜の元に辿り着いた。
気付けばもう他の少女達は全員蜘蛛の餌食にされてしまったらしく、残っているのは千夜一人である。
あのおもらし娘ですら物言わぬ石と成り果てている。
そしてこんな状況であっても千夜は悲鳴を上げたりはしない…
いや、恐怖のあまり引きつって声すら出せなくなっているのかも知れない。
辺りはとても静かで、それ故蜘蛛達が糸を辿り自分に群がっていく音が不快な程鮮明に耳に届く。
そんな蜘蛛達に混じって、一際大きな威圧感を放つ気配を背後から感じる。
 親蜘蛛が千夜を背後から抱きしめるように、その細く長い大脚を前に伸ばす。
そして首筋に牙を近付けながら、赤子が呪詛を吐くような鳴き声を千夜の耳元で立て始めた。

 クヮカカカ……カカカカカカ……!

 ついに大蜘蛛が千夜の首筋に牙を突き立てた。
そして、それを合図に全身に群がる蜘蛛達もこぞって千夜の躯に喰い付いて、餌を貪り始めた。

「ぐっ……!」

 痛みはあまり感じない。ただ全身をどうしようもない虚脱感が襲う。
なんとか蜘蛛を振り払おうと腕に力を籠めるが、
ただでさえ体の自由を奪われている上に、腕に籠めた力ごと根こそぎ奪われていく。
いっそこの脱力感に身を委ねてしまった方が楽に感じるのかも知れないが
それだけは無いようにと唇を噛み締める。
でも…こんな文字通り手も足も出ない状況を、一体どう打開すればいいのだろうか。
 足元の感覚が無くなる。
その感覚がいつも変身する時に味わうものと似ていたから、
つい心に隙が生じて感覚の消失が上へ上へと広がっていく。
どうやら…ついに石化が始まったらしい。
 実際に襲われて分かったが、蜘蛛達が吸い取っていたのは魔力だ。
恐らくここに集められた少女達は魔法少女か、その素質を持つ者だったのだろう。
そしてこの蜘蛛達はそんな人間の魔力を糧に生きるものなのだ。
 魔力そのものが具体的にどういうものなのかは知らない。
だが人間は誰しもが魔法の素質を持っているというような話を誰かに聞いた覚えがある。
そしてその源であろう魔力が命にも繋がる力であるのなら
石化とは魔力を吸い尽くされた者の最期の姿なのかも知れない。
自分もそうなってしまうのか。ここで終わってしまうのか。
 その時、心臓に黒い火が燈った気がした。
まだ終わらない。こんなところで終わって堪るかと、心の中で呟いた。
 もう胸の辺りにまで石化が広がって両腕も完全に色を失って蜘蛛が離れていく。
魔力を吸い尽くされ、完全に石化するまであと僅か…。
それでも千夜は微かに唇を動かして一言呟いた。
精一杯の魔力と怒りと呪詛を籠めて。
冷たく、鋭く、小さく、そしてハッキリと。

「どいて」

 一瞬、背中の蜘蛛が怯んだ気がした。
そして千夜の発した声は針のように黒い世界を通り抜けていく。
その声に答えるかのようにどこからか叫び声が聞こえる。
底意地の悪いサメを擬人化したようながなり声……なんだ、いつものあいつじゃないか。
 不覚にも、この時千夜は安堵した。…まったく屈辱的だ。

「ガイドゥランバー!!」

 声のした方から黒い刃が飛んできて、千夜に群がる蜘蛛の群れを蹴散らした。
刃が通り過ぎたのは一瞬で、しかもこの黒い空間に溶け込んでいるために
千夜の目にはいきなり蜘蛛が吹っ飛んでいったようにしか見えなかった。
 親蜘蛛だけは千夜にしっかりしがみ付いて離れなかったが
もはやのんびり魔力を吸い取っている場合ではなく、
千夜の首から牙を放して黒い刃が飛んできた方向に爛々と光る眼を向ける。
すると今度は刃どころか、サメのような龍のような長身の魔物が
こちらに向かって猛スピードで向かってきた!

「ディーゴゼッカー!!」

 鋭い牙を持つサメの顔、細い腕には似つかわしくないほど大きな爪。
そして、邪悪な龍のような黒銀色の細く長い体。
 人間界、延いては魔法界の征服を目論む、異次元に棲む魔物達の結社パンデモニウム。
その筆頭幹部ダーティは不敵な笑みを浮かべながら千夜の背中の大蜘蛛目掛けて突き進む。
そして魚雷のような勢いで千夜の背後を掠め、その巨大な爪で
千夜の背中にへばり付く大蜘蛛を強引に引き剥がす!

「お楽しみのところ悪ぃが、ソイツをやられる訳にはいかねぇんでな!」

 ダーティはそう言って大蜘蛛を暗闇の中へ放り捨てた。
そして大きく渦を巻くように千夜の周りをグルグルと回りながら
すっかりボロボロな様子の千夜をからかうように眺めている。

「…ったく、危ねぇ危ねぇ。オレ様が来てやらなかったら
 オメェ今頃どうなってたか。へへっ、感謝すんだぜ千夜」

 これまで、穴の中から顔だけを覗かせた姿しか見た事が無かった為、
ダーティの思いも寄らない本当の姿に千夜は目を丸くする。

「ダーティ……あんた……」

「話は後だぜ、千夜。まずはあの意地汚ぇ蜘蛛共を退治してやろうじゃねぇか」

「…簡単に言うけど、今のあたしが戦える状態に見える訳?」

 蜘蛛の糸に巻き付かれ、服はボロボロ。何より足先から肩口の辺りまでが石化している。
戦う以前にその場から動くことさえできよう筈が無い。

「まず見えねぇな。とりあえず変身しとこうぜ」

「それができないのよ。変身の呪文が出てこないの。
 仮に変身できたとして、もう戦う力なんて残ってないわ…」

「…まだ完璧に自力で変身できるまでにはなってねぇか」

 ダーティは一瞬思案するような顔を見せると、
また意地の悪そうな笑みを浮かべて何事も無いかのように千夜に告げた。

「へへっ、しょうがねぇな。オレ様の力を分けてやるとすっか。
 さぁ千夜、千の夜の巫女サウザンナイトに変身だぜ!」

「え?! ち、ちょっと待ちなさ…」

 千夜の制止の言葉を聞く隙も無く、全身を黒い魔力の固まりと化したダーティは
吸い込まれるように千夜の体に溶け込んでいく。
ダーティの魔力を摂り込んだ千夜の体が変化を始める。
石と化した体はより黒く、冷たく、そして美しい質感を持つ黒曜石へと変質し、
そしてそれは一瞬にして千夜の全身を包み込んだ。
 黒い石の塊と化した千夜の全身を魔力が覆う。体の中を血液に混じって魔力が巡る。
その全てが千夜に力を与える。……苦痛とも快感とも取れる耐え難い昂揚と共に。
この感覚に身を委ねよう。そうすれば手に入る。この世の全ての理を制する千の力を。
そしてその力を持ってして、己に屈辱を与えた卑しき蜘蛛達を退治てやるのだ。
 千夜の心臓が叩き付けられたようにドクンと一鳴りし、そして千夜は叫んだ。
全身が壊れ、砕け散ってしまうように激しく。

「うあああああぁぁぁぁ……!!」

 その叫びに呼応して千夜の体にヒビが入り、砕け散る。千夜の体を覆う黒曜石が。
そして中から姿を現した千夜はボロボロのパジャマ姿などではなく、魔女の格好をしていた。
尖った帽子にマントを着けた黒装束。全身を妖しげな紋章が浮かんでは消える。
そしてザグオラと呼ばれる、ヒビの入った南瓜のような物が付いた長いロッドを手にし、
千の言霊を操る魔女サウザンナイトはここに顕現した。

「……だから“ちょっと待て”って言おうとしたのに…」

「刺激的だったろ? …さて、オメェにはもっと刺激のあるもんを見せてもらわねぇとな」

 暗闇の彼方から怒りに満ちた大蜘蛛が無数の子蜘蛛を引き連れて
縦横無尽に張り巡らされた糸を辿って押し寄せてくる。

「あの蜘蛛の名はディメンジュラ。人間の魔力を食い散らかすふてぇ野郎だ。
 構う事は無ぇぜ、千夜。まとめて全部吹っ飛ばしちまえ!」

 言われなくてもと、千夜は押し寄せる蜘蛛の軍勢を前にザグオラを構えた。
そして、その大将である親蜘蛛の赤く爛々と光る眼を見つめながら、
蜘蛛の群れをまとめて焼き払う魔法の名を口にした。

「バーニゴ・バーニッシュ!!」

 魔法の言葉と同時にザグオラから幾つもの炎が吹き上がる!
炎は蛇のように長く伸び、蜘蛛の糸を伝って蜘蛛の群れへと向かって行く。
身の危険を感じた蜘蛛達が方々に散らばろうとするがもう遅い。
逃げる子蜘蛛よりも炎の進撃の方が断然速く、子蜘蛛達は次々と炎の餌食になっていく。
炎に捕らえられた蜘蛛は燃え屑さえも残さずに消え失せる。
 炎は自在に曲がり、うねり、そして枝分かれしながら蜘蛛達を一匹残らず駆逐していく。
ついには子蜘蛛は全滅し、残るは親蜘蛛一匹のみ。

 ググググ……ギギギ………!

 親蜘蛛ディメンジュラは歯切れの悪い呻き声を上げる。
子蜘蛛を焼き殺された怒りに震えているのか、サウザンナイトの圧倒的な魔力に恐れをなしたのか。
だがもうどちらでもいい事だ。もう、終わる。
 まるで蜘蛛の巣のように四方八方に燃え広がる炎が一斉にディメンジュラに襲い掛かる。
細長い炎が槍のようにズドンズドンとディメンジュラの体に突き刺さる。

 ギギ…グ……グヮ……ア゛ァァァ………!!

 おぞましい女の悲鳴のような声を上げるディメンジュラ。
それでも炎は無慈悲にその巨躯を串刺しにしていく。
全ての炎がディメンジュラを貫く。人間の倍もの大きさを持つ蜘蛛はさらに大きな炎の固まりと化す。
 炎の槍が消えてもディメンジュラを包む炎はその勢いを鎮めようとはせず、
ついにディメンジュラの体は大爆発を起こした!!
 怪物の破片は火花と共に方々に散り、そして無限に続く漆黒に溶け込むように消失していく。
最後にもう一度大きな爆発を起こして、魔力を喰らう異次元の蜘蛛ディメンジュラは
己が飲み干した魔力と共に暗闇の彼方に消え失せた。

 怪物の最期を見届けて千夜はザグオラを下ろし、大きく肩で息をついた。
千夜の体に宿る魔物はちっともありがたみを感じていないようなからかい声で千夜をねぎらう。

「へへっ、ご苦労だったな。もう終わったぜ」

「…………そう」

 本当は文句の一つも言ってやりたい。
「結局あの蜘蛛は何だったのか」とか訊きたい事も山ほどある。
だが身も心も疲れ果てた千夜はただ一言呟く事しか出来なかった。
 戦いが終わって辺りは静寂に包まれる。
ディメンジュラに襲われた少女達はまだ石のまま。
恐怖や絶望に満ちた表情で固まったまま元には戻らない。

「ねぇ、あの子達って……死んだの?」

「いや、死んじゃあいねぇぜ。魔力を吸い尽くされてああなっちまっただけだ。
 魔力が戻れば元の姿にも戻ると思うぜ」

「……そう」

 怪物の毒牙に侵された人間が、その怪物が死んだ途端にたちまち回復するという光景は
変身物ではよくあることだが、よくよく考えれば御都合主義もいい所なのかも知れない。

「さぁ、もうこんな所に用は無ぇ。さっさと帰るぜ」

 その言葉を聞いて千夜は一瞬戸惑いを覚えるが、すぐに理解した。
自分は一体何なのか…自分がどう答えるべきなのかを。

「そうね」

 千夜は努めて冷静に、そう答えた。
そしてダーティと共に漆黒の空間を後にした。

 光も音も無い無限に広がる漆黒の中、少女の形をした石の像が行き場も無く漂っている。
もし彼女達に意思が残っているとしたら何を思うだろう。
それは誰にも分かりようがない。
ただ一つ確かなこと、それは……

正義の味方はここにはいない。

Next target is...


戻る