作:日常の混沌
暗闇。
……いや、違う。
果てしない黒。全てを飲み込んでしまうかと思われるような黒。
そこは、敢えて言うならそういう空間だった。
飽くまで敢えていうなら、の話だ。
正直暗闇なのかも分からない。自分の前に広がる空間は、限りなく……無に近かった。
寒くもなく、暑くもなく、かといって適温な感じもない。風もない。音もない。何かに触れている感覚もなければ、地に着いてるという感じもない。かと言って、浮遊感すら感じることもない。
本当に何もない。あるのは自分という存在だけ。
……いや、それすらも危うく感じてしまうような、そんな世界。
そんな中、光が……見えた。
決して強くない。消え入りそうな、小さな光。
けれども、それは確かにそこにあった。そこにあるという強い力を感じた。
光はわたしに、おいで。と語りかける。
わたしは、ゆっくり頷く。
そして、わたしは手を伸ばす。
――届かない。
届くという確信はあった。けれど、それは真実ではなかったようだ……。
冷や汗が流れた。
じわじわと、迫りくる“何か”を感じる。
「時間……ないのに……」
今の一挙動で光に届けば問題はなかった。しかし、それは叶わなかった。
もう一度手を伸ばし、前に進もうと試みる。……いや、試みるは正しくない。体は手以外は動く意志を見せはしていない。前にでようという気持ちだけが伸びていた。
当然、届くはずもなく。手は安穏とした空間をなぞるだけ。
寒気が、した。
「時間……ないのに……」
もう一度、呟く。
タイムリミットが近づいてくる。自分の滅びのタイムリミットだ。
正直、滅びること自体は怖くなどない。死は生命の絶対運命である。受け入れられない教えなど受けた覚えがない。
しかし、今自分は果てしなく恐怖している。
何故か。
それは、自分のやり遂げようとしたことがやり遂げられずに人生の幕を閉じようとしているからに他ならなかった。その想いが未練となり、この世に留まってしまうことだけが怖かった。
自分が滅びることが怖いのではない。自分が自分以外の何物かになり、自分の意思なしに彷徨うことが怖かった。
――届けええ!!!!
何もない空間で、何かがそこにあると信じているわたしは、いっぱいに手を伸ばし、光を掴もうとした。ありったけの“想い”を込めて……。
「――とどのつまるところ、てめえは何をしたいんだっつーことだ」
目の前の中年男性は、わたしを半眼で見つめながら語りかけてくる。
「わたしは、“光”を掴んでみたいだけ。英雄になってみたいだけ。それ以上は何も求めてなどいない」
ゆっくりと、それでいてはっきりと想いを言の葉に載せる。自分の中での、唯一ある、はっきりとした意思。
が、眼前の男――わたしの師匠にあたる――はそれに納得がいかないらしい。やれやれと首を横に振り、
「その“だけ”はどっから降ってくるんだ。ええ? “みたい”なんて、心の弱い奴の言い分だぜ? そんな心意気じゃあおめえ――」
「――お言葉ですが」
と、師匠の言葉を遮る。
「師匠がいつも言うことは、『大切なのは想い。内容、事情なんか関係ない。強い想いだけがあればなんだってできる』のはず。心意気など、あなたの教えには関係ないはず! 目的なんて、ほんのささいなことだとあなたは言った。冒険者など、目的がなくとも気持ちだけでなんだって追っていけるといったのはあなただ!」
教えを……強い想いの言葉をぶつける。目の前の男に。
が、当の本人はため息をつきながら、
「……あのなあ。確かにそれは俺の言葉だ。嘘を教えたつもりもねえ。だが、さっき言っただろうが……。これは“禁忌”ってやつだ。いくら強い想いがあったって、いざとなったときのよりどころがなけりゃあ……」
鋭い眼光がわたしを射抜く。その視線だけで殺されそうな錯覚を覚える。
「“喰われる”ぜ」
その一言を期に、長い沈黙が生まれる。張り詰めた空気が、全身を撫で回しているような錯覚――。
わたしは、その重圧にたえられなかった……。
「はっ――」
咽喉が渇ききってうまく声が出せなかった。しかし、一度動いた咽喉は止まらなかった……。
「はなしにならない!!」
わたしはそれだけ告げると、部屋を出て行った。
今考えると、そこで逃げ出したのは、わたしの意志の弱い証拠だったのだろう。そんなわたしは、師匠のいうとおりの弱い心の人間だったのだろう……。
……師とは、もう二度と会えなくなることを、そのときのわたしは知らなかった……。
昔のわたしは、ただ漠然と生きてきた。漠然と生きてくものだと思っていた。そして、漠然と死んでいくものだと思っていた。
そんな中、16の誕生日。世界の秘密をわたしは知る。成人儀式の日に教えられる世界の真実。それを知ってどうするかは、本人次第であるというしきたりが、村の大人たちには伝来していたそうだ。
秘密とは、“想い”が力に変わる世界。
それがこの世界だというのだ。
“想い”は肉体に超常的な力を与え、超常的な現象すら起こさせる。想いが強い人間ほど強い。そんな世界だ。
人はその力を、“思念”と呼んだ。
ただの“想い”ではそれはめったに外に現れることはないが、“想い方”次第で力に変えられることを知った。
強い“思念”で、過去の英雄たちはいくつもの伝説を作り上げてきたという。正直、心躍った。漠然としたわたしの人生が、一気に壊れたようなすがすがしさを感じたことを覚えている。
そしてわたしは、彼らに憧れ、恋焦がれた。
その後わたしは、周囲の反対を押し切って村での“思念”の使い手に弟子入りし、使い方を習った。
その中で、自分なりに英雄になるためになんだってしてやろうと思った。
けれど、わたしは英雄にはなれなかった……。
何故か?
英雄になるべく功績を見つけることができなかったからだ。
時代は至って平和。せいぜい危険を伴う職業など、冒険者くらいだった。
藁にもすがる想いで、わたしは冒険者となり、今……いや、つい先日までの師に弟子入りした。
そこから師との冒険の日々が続くが、決して英雄などにはなれなかった。やはり、英雄になりえる功績など、そうそう転がっているものではなかった……。
そんなある日、わたしは酒場である会話を耳にした。
「知ってるか? 北の外れの祭壇に、“光る想い”とかいう宝があるらしいぜ。で、それを手に入れると、信じられないまでの“思念”を手に入れることができるらしい」
「なんかきな臭い話だな……そんなお宝、なんで誰も手をつけてねえんだよ」
「はっは。甘いねえ、罠があるからに決まっているだろ、極上の罠だよ。それを取りにいって帰ってきたものはいないさ」
「……で、それをおまえが取りに行くと?」
「はっ。んなバカなことするかよ。別に俺は今以上に強くなる気はねえしな」
「言ってろ。怖いだけだろうに……」
「まあ、実際そうなんだがな。なんか名のある冒険家とかも向かったらしいがよ。みんな玉砕だと」
「ほう……」
「そんなところに行こうなんて思う奴なんざ、本物の英雄か馬鹿のどっちかだろう」
「はは、ちげえねえ」
…………
それ以上の会話は聞いた記憶がない。いや、耳に届かなかった。
『英雄になれる』
頭の中は、そのことだけでいっぱいだった。
わたしは、即座に踵を返し、酒場を後にした。
師匠にその旨を話すと、いきなり目の色を変えられ、
「あれは“禁忌”だ。手は出すな」
と言葉を荒に言われた。
わたしは必死に食い下がったが、師匠は聞く耳を持たなかった。
で、先ほどの問答に至るというわけだ。
数日の一人旅の末、わたしは噂の祭壇に辿り着く。
そこは、小さな祭壇だった。
荘厳という感じとはほど遠く、質素で、ともすれば素通りしてもおかしくないような存在感のなさを感じさせた。
しかし、明らかに空気はおかしかった。
天気はからっと晴れているのにもかかわらず、粘質性の空気が肌にべっとりとまとわりつくような錯覚を覚える。
ごくり、と咽喉が音を立てた。
「ここで……わたしは英雄になれるのだ……」
想いを呟く。が、それは期待に満ちた言葉では決してなく、逃げ出したい想いに駆られる自分を戒めるために吐いたような言葉だった。
“禁忌”
師匠の言葉が一瞬脳裏を過ぎるが、わたしはその単語を首を振って霧散させようとした。それが空中に消え行くことなどないことなど始めから分かっていたが、そうしなければ気がもたなかった。
大きく深呼吸をし、一歩、踏み出す。
足に何かがまとわりついているような重さを感じた。
また一歩、一歩――
心が叫んでいた。かえりたいと。
それでも、わたしは足を止めはしなかった……
祭壇の目の前に来て分かった。中には、何もなかった。
ただ、蜀台がポツンとあるだけ。
「? ……“光る思念”は?」
じっとりと汗ばむ手を服にこすりつけながら、わたしは祭壇の中を見回した。
やはり、何もない。
「誰かに……先を越された?」
いや、そんなはずはない。もしそうなら、噂のひとつくらい立っていてもおかしくない。
わたしは、意を決して祭壇に足を踏み入れることにした。
一歩。
鼓動が高鳴る。
一歩。
額から、汗が吹き出てくる。
一歩。
あと一歩で、祭壇に足がかかる。
……一歩。
祭壇に、足がかかる。
瞬間。
眼前に、女神の石像が現れたと思ったと同時、わたしの世界は光を失った。目が、一瞬で石化したことに気づく。
――暗闇の世界が、到来した。
それを追うように、わたしに襲い掛かる不思議な感覚。
地面がなくなり、かといって浮いているでもない。空気はあるに違いないのに、空気そのものを感じることができないような錯覚。まさに自分がここに存在していないような感覚に支配されていた。
直感的に分かる。
自分は思念トラップにかかったのであると。
おそらく過去の思念能力者が、この場に“こういう”トラップを“思念”として滞留させたのだろう。
気づく。
目から、石化がどんどんわたしを侵食していくのを。
――どうすれば……
光の見えないわたしは、無駄と分かっていながらもあたりを見回す仕草をした。
……無駄ではなかった。
光が……見えた。
決して強くない。消え入りそうな、小さな光。
けれども、それは確かにそこにあった。そこにあるという強い力を感じた。
光はわたしに、おいで。と語りかけているような気がした。
わたしは、ゆっくり頷く。
それが“光る思念”なんだと、直で感じた。
そして、わたしは手を伸ばす。
――届かない。
届くという確信はあった。けれど、それは真実ではなかったようだ……。
冷や汗が流れた。
じわじわと、迫りくる死を感じる。
「時間が……ないのに……」
今の一挙動で光に届けば問題はなかった。しかし、それは叶わなかった。
もう一度手を伸ばし、前に進もうと試みる。……いや、試みるは正しくない。体は手以外は動く意志を見せはしていない。前にでようという気持ちだけが伸びていた。
当然、届くはずもなく。手は安穏とした空間をなぞるだけ。
寒気が、した。
「時間が……ないのに……」
もう一度、呟く。
タイムリミットが近づいてくる。自分の滅びのタイムリミットだ。
正直、滅びること自体は怖くなどない。死は生命の絶対運命である。受け入れられない教えなど受けた覚えがない。
しかし、今自分は果てしなく恐怖している。
何故か。
それは、自分のやり遂げようとしたことがやり遂げられずに人生の幕を閉じようとしているからに他ならなかった。その想いが未練となり、この世に留まってしまうことだけが怖かった。
自分が滅びることが怖いのではない。自分が自分以外の何物かになり、自分の意思なしに彷徨うことが怖かった。
――届けええ!!!!
何もない空間で、何かがそこにあると信じているわたしは、いっぱいに手を伸ばし、光を掴もうとした。ありったけの“想い”を込めて……。
が、手は光に届くことはなかった。それどころか、空を切ることすらなかった。
手は、完全に動かなくなっていた。
手どころか、体で動くところなど、すでにないことに改めて気づく。
そこに残ったのは、わたしという存在と、わたしの思念と、絶望という感情のみ。
――ああ……わたし、もう終わりかな。
師は、わたしのことを“心が弱い”といった。
まさにそのとおりだった。
わたしは、この祭壇に恐怖した。逃げたいと思った。
師はこうも言った。
『これは“禁忌”ってやつだ。いくら強い想いがあったって、いざとなったときのよりどころがなけりゃあ、“喰われる”ぜ』
これは、いざとなったときに生きたいと思う心を言ったものに違いなかった。生きたい理由があれば、“想い”があれば、なんとかなることもあると言おうとしたに違いなかった。しかし、わたしは死を恐れないなどと思っていた。
――なんて愚かなんだろう、わたしというやつは。
手遅れになって、初めて師の素晴らしさ、教えに感銘を受けた。 できることなら、今すぐ地に額をこすりつけて謝りたかった。
しかし、師に謝罪の言葉を吐きたくとも、咽喉はもう動いてはくれない。
どうしようもなく切なくなった。
しかし、泣きたくても、涙を流す瞳がもうない。
わたしにできることはもう、ただただ、滅びのときを待つことだけだった……
光の見えない空間で、自分の存在も確かに感じることもままならないまま、わたしのいしきは、ふかいやみに、おちて、いった……