君を 忘れる

作:くーろん


 地下に広がる洞穴は、死の香りだけが満ちていた。
 じっと見る手はあまりに小さく、救える命は僅かだけ。
 ならば、彼がこの先へと進むには――――
 

 
 
 「「はあっ――――!!」」
 剣戟を振るう残影二つ。
 前後左右天空地表、人の持ちうるあらゆる死角を突く連撃はすでに神速。
 対して、不動のままその全てを迎撃する剣の壁はすでに聖域。
 動と静。交わした刃は幾百なれど、ぶつけ合う死は未だ一太刀とて互いに届かず。

 (・・・・・・・・・・・・)
 その戦いを、衛宮士郎は固唾を呑んで見守っていた。
 介入など無意味。人知を超えた戦いで、人である彼に何が出来ようか。
 常人の目に留められぬ斬り合いは、最早影の衝突でしかなく。
 ただ打ち鳴らしあう鋼の音だけが、そこに在る事を主張していた。
 
 「――愚かな。純粋な斬り合いで私に勝てると思うのか、ライダー」
 鋼が静まった。
 影の一つが、声をもって形を成す。
 悠然と騎士剣を構え、漆黒の鎧に身を包んだ華奢な少女の名はセイバー。
 戦いの中息一つ切らさず、傲慢とも取れるその言葉には一片の虚飾も垣間見えない。

 「勝算があるからこそ、こうして戦っているのです。
 あなたこそ、最強の地位に慢心しているのではありませんか、セイバー」
 返答は挑発。長身秀麗、腰まで伸びた髪を揺らし、両手に短剣を持つ女の名はライダー。
 短剣を繋ぐ鎖が揺らぎ鳴る。神速の残り香が、鎖を弦に余韻を奏でていた。
 「・・・・・・いいだろう。ならばその慢心、所詮は幻想に過ぎぬと我が剣で示すのみ!」
 同時に動く。力強い鋼の音。
 二人が二つの影となり、再び交わる神速と聖域。
 
 今行われているのは、戦争。
 たった二人だけの戦いであろうとも、その結末に数億の命が賭けられているならば。
 戦争以外に例える言葉などない。
 
 
 
 
 ――聖杯戦争。
 それはあらゆる願いを叶える聖杯を巡り、欲望を携えた魔術師達が最後の一人になるまで争い合う、壮絶なる殺戮劇。
 資格ある魔術師は条件として英霊――サーヴァントを召還し、使役し、互いが持つ望みのため、かりそめの信頼関係を築く。
 数百年繰り返された戦いはその存在自体が汚れていたが、願いを叶えるというただ一点においては、常に純粋であった。
 しかし――
 
 
 
 
 「ぐっ! ぅっ――――!」
 ライダーが大きく飛んだ。
 いや飛ばされたと言うべきだろう。セイバーの強烈な一撃が、ライダーをその速さごと弾き飛ばしていた。
 素早く着地するライダー。振り向きざまに二人が向き合う。
 
 静寂。静止。
 
 離れた間合いは、セイバーの騎士剣をもってしてもまだ数歩足りなかった。
 「は・・・・・・・・・・・・くっ――――」
 ライダーの息が荒い。
 (くそっ、まずい・・・・・・・・・・・・)
 満身創痍。
 酷使し続けた彼女の足が明らかに限界を訴えているのは、傍から見ても分かる。
 斬り合い始めてから数分。
 騎兵の名に恥じぬスピードは、セイバーと打ち合うたびに確実に磨耗し、彼女の足を潰していた。
 「無駄な事を・・・・・・なぜ戦いを望む、ライダー」
 満たされた死の香りは、冬の寒さをも殺す。
 言葉と共に吐いた無色の息が、研ぎ澄まされた殺意に刻まれ霧散する。
 「あなたも分かっているはずだ。今行われている結果をもってしか、彼女が救われない事を」
 対し、セイバーは未だ息一つ上がっていない。
 冷ややかな声色は幻想にすがる相手へ蔑みを。断定の言葉は死の確約を。
 「――っ、ライダー!」
 負ける。
 圧倒的な力の差と忍び寄る死の予感に攻め立てられ、士郎は加勢すべく一歩を。しかし、
 「あなた、こそ・・・・・・分かっているはずです。このままでは彼女は救われない事を」
 振りかざした腕が士郎を制した。
 視線は対峙者へと固定。短剣を再び構えるライダー。
 『まだ戦う時ではない』、背中はそう告げていた。
 「ならば、あなたが持つ慢心を真実とすべく、私は・・・・・・ただ刃を振い続けるのみ!」
 跳躍。長髪が風に舞い上がる。
 
 そう、振るい続けるしかない。
 ライダーが唯一勝るのは速度のみ。それが尽きたとき即ち彼女の最後。
 いつか確実に訪れる敗北。
 だが暗澹めいた未来を打破するには、今はただ待ち続けるしか、選択肢はない。
  

 ――きっかけは、一つの悪意。
 どんなに歪み、醜悪に満ちていたとしても、それ自体はたった一つの悪意でしかなかった。
 だがその一つが、あるたった一人の少女を狂わせる。
 花の名を持つ少女。ライダーの主(マスター)。
 魔道の家系と生まれ持った素質のために陰惨なる過去を過ごし、心に歪を作り上げてしまった少女。
 悪意は彼女を聖杯の器とした。手段は違えど目的は他と同じ、己の欲望の成就のため。
 だが単なる願望機に収まるには、聖杯も、そして彼女も、あまりに狂いすぎていた。
 彼女に潜む濃厚なる穢れが、戦いの中で螺旋を描き、悪性を招く渦と化す。
 螺旋は誘導し、捕食し、聖杯はそれを増幅し、精錬し――末に彼女と聖杯が望んだものは、汚れ無く純粋な悪の誕生。
 今や満たすべき欲望すら見失った戦い。
 訪れる結末は、彼女を含めた全ての死かあるいは――――


 「――――っ!」
 大きくライダーが飛んだ。
 「――――くっ!」
 追撃するセイバー、が、捉えられない。
 足に絡みついた鎖。先端となる短剣は岩へと刺さり楔となり、彼女の追撃を束縛する。
 ギリギリの勝負の中、編みこんだライダーの策。
 「この程度の拘束などっ!」
 魔力一部解放、放出。
 鎖が砕け散る。
 時間にして2秒。だが遅い。
 一瞬の隙を突いて離れた距離は50メートル。遠すぎる間合いに
 「・・・・・・・・・・・・宝具っ!」
 身構える。間合いから、瞬時にセイバーは理解した。
 サーヴァントが持つ切り札――宝具を放つのに絶妙の間合いであると。
 
 大気が鳴る。
 予兆を示す無形の叫びは、読みに対する回答か。

 「――――セイバァァァッァーーーーーッ!」
 姿勢を低く。眼前には血染めの魔方陣。
 すぐにも相手に飛び掛らんと、騎兵は蹂躙すべき名を吼える。
 
 「来るか・・・・・・ライダー!」
 剣を下段に、腰は低く。
 降りかかる火の粉を討ち払わんと、騎士は倒すべき名を叫ぶ。
 
 歪む。
 周囲が魔力で満たされる。
 撒き散らされる魔は紫電となり弾かれた空気は風鳴りとなり、周囲を激しく震撼させる。
 
 
 「ベルレ(騎英の)――――」
 赤き魔方陣。幻獣たる天馬を呼び寄せる門。
 鋭鋒する閃光を矛と成すライダーは、さながら宙をよぎる白色の彗星。
 
 
 「エクス(約束された)――――」
 刀身に宿る黒き光。指向性を増した膨大な魔力。
 研ぎ澄まされた暗影を携えるセイバーは、さながら闇を振りまく漆黒の太陽。
 
 
 
 
 ――結果はただ一つ、必殺。
 
 
 
 
 「カリバーッ(勝利の剣)――――――――!」
        「フォーンッ(手綱)――――――――!」
       
 
       
                   
 己以外をただ消し去るため、光と闇は今衝突した――――――!
 
 
 
 
 ――結果は明確だった。
 太陽と彗星、その二つがぶつかり合えば、彗星は太陽に飲み込まれるのは明白である。
 ならば、ライダーの最後の賭けは自殺行為でしかないはずである。
 しかし・・・・・・
 
 
 
 
 
 「――――トレース(投影)、オン(開始)」
 確実な敗北の中に、勝機を見出した男がいた。
  
 『私の命はあなたに預けます、士郎』
 ライダーの言葉を思い出す。
 共通の目的のため、ライダーと結んだ一時の主従関係。
 託された信頼に答えるべく、彼は今、加速度的に動き出す。
  
 基本骨子解明、想像理念解明、構造材質解明。
 左手を構える。成すべき事はもう決まっている。
 浅黒く、まるでつぎはぎのような腕はその通り彼の腕ではない。
 アーチャー、そう呼ばれたサーヴァントの腕。
 おおよそ不可能とされた移植手術を乗り越えた結果、彼は人在らざる英霊の力――宝具の練成を手にしていた。
 無論、その代償は決して安くはない。
 現に彼はすでに――

 「―――I am the bone of my sword(体は剣で出来ている)」
 
 基本骨子解明済、想像理念解明済、構造材質解明済、投影完了。
 怯んでなどいられない。
 敗北を塗り替えんと、彼は勝機を具現する。
 
 
 ――突き出した矛が届く前に打ち砕かれるなら
 襲い来る全ての脅威を、盾を構えて防げばいい
 
 
 「“ロー(熾天覆う)・アイアス(七つの円環)――――!”」
 
 
 勝利を我が手に。
 英雄アイアスの盾。あらゆる飛撃を守護する盾が、花弁の形にて具現した。
 雄大に広がる一枚一枚が、古代の城壁に匹敵するこの盾を持ってすれば――
 
 「がぁっ――――ぎっ!」
 
 ――花弁が消えていく。
 吹き飛ばされそうになった左手を必死で押さえる。
 その間に一枚・・・・・・もう一枚。
 「うっ! ぐぅっ!」
 さらに一枚。約束された勝利をもたらす光は、その名に偽りは無いという事か。
 残りあと一枚。それもまた徐々に消え――――
 
 
 
 
 ――――矛盾、という言葉がある。
 あらゆる盾をも貫く矛、あらゆる矛をも防ぐ盾。
 二つを売っていた商人に、ある客が両方をぶつければどうなるか聞いたことから生まれた、故事成語。
 その商人は結局答えに窮したが、後世には矛盾の結末を、あるものはどちらも壊れると言いある者はどちらかが壊れると言い。
 結果、盾が矛に負ける可能性を、この言葉は明示していた。
 
 ならば、確信できる。
 
 
 
 
 「――――――ぉぉ」
 ”盾が剣に負ける道理”は存在しない。
 「――おおおぉおおぉぉっ!」
 精一杯、手を前へ。終焉なぞどうして認められるものか。
 差し伸べる先は、眼前を阻む闇よりずっと前に。
 だから。
 「おおおおおおぉおおおおぉぉぉぉぉぉっ!!!」
 矛が届くその時まで、前へ。ずっと前へ。
 闇を超えた、更に先へ――――
 
 
 「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁっ、セイ、バァーッ!!!!!!」
 
 
 ――――瞬間、音が消えた。
 薄暗い洞穴が、眼前の闇が、全ての色が白になる。
 
 
 最後の花弁が消えようとした瞬間、白き閃光が闇を貫き、激しい残響音と閃光で、狭き世界を満たし尽くした――――――
 
 
 
 
 
 
 
 「・・・・・・・・・・・・くっ」
 耳鳴りが収まる。
 周囲は静寂に満たされ、光苔の薄明かりが周囲を照らす。
 勝利は彼に。仮に打ち負けていたとしたら、人の体など魂の塵すら残っていない。
 それに士郎は目にしていた。ライダーのベルレフォーンによって吹き飛び、背中から地面に落ちたセイバーの姿を。
 「――――セイバー!」
 慌てて彼は駆け出す。無理な投影で傷ついた体を引きずり、ただ無心に彼女の元へ急いだ。
 「はあっ、はあっ・・・・・・」
 いた。
 漆黒の鎧を纏った身を地面に横たえ、セイバーは力なく目を閉じていた。
 先ほどまでの膨大な魔力を失っているのは彼にも分かる。
 だが、まだ死んではいない。
 そう、まだ死んでいない、腰を落とし、セイバーの上に馬乗りになり、剣を――

 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぁ」

 おそらく、強く頭を打ったのだろう。
 弱々しく、セイバーは目を開いた。
 眩しそうに、光苔だけの薄闇が明るすぎるとでも言いたげに、ぼんやりと見上げて。
 夢見心地にまどろむ瞳。殺気はなく、そこには心地よさすら感じ――
 
 
 ”殺せ”
 
 
 「・・・・・・・・・・・・シ、ロウ?」
 懐かしい声。
 かつて共に戦っていた時のような親しみが、そこには込められていて――
 
 
 ”殺せ”
 
 
 ――携えた剣に手をかける。
 理解している。彼女をこのままにしては危険だと。
 
 
 ”そいつを殺せ”
 
 
 聖杯戦争開始時、セイバーの契約者は士郎であった。
 契約の日。運命のあの日。
 闇夜に落ちる月明かりの元、照り輝く髪が金砂のように美しかった事を、今でも覚えている。
 共に戦った日はたった数日ではあったが、彼女の気高さ、強さは理解している。
 そう・・・・・・
 『瀕死の重症を負っても、驚異的な速度で回復』する、彼女の治癒力も。
 
 
 ”殺さなければ、お前が殺される”


 『聖杯を求める目的がある』、そう言ったセイバーに聖杯を譲ると約束した。
 見た目は少女にしか見えない彼女に、無謀にも俺が守ると公言した。
 その約束は・・・・・・・・・・・・もう果たせない。
 敵の手に堕ち、悪性によって身も心も黒く染料された彼女はもはや、破滅を導くためだけの、駒。
 自らの無力によって、具現する意味すら他に委ねてしまった彼女をどうして――
 
 
 ”ここで殺されたら、誰があいつを迎えられる”


 (・・・・・・っ!)
 剣を持つ手に力がこもる。
 もう敵でしかないのだ。
 どちらかが消えなければ、先に進む事が出来ないまでに。
 
 
 ”――殺せ”
 
 
 高々と、手を振り上げる。
 死を見上げる彼女は無言。
 瞳は冷酷を帯びたものへと変わり、振り下ろされる終わりをただ、見つめていた。
 
 ”――――殺せ!”

 掲げた剣が、胸へ――


 「ぐぅっ――――!」

    
 仰け反った様に、思わず手が止まった。
 まだ刃は下ろされていない。セイバーが苦しむ理由が分からない。
 「あ、ぐっ・・・・・・ライ、ダー・・・・・・・・・・・・」
 (えっ・・・・・・)
 答えは本人から。語られた名に思わず振り向こうとし
 「士郎、振り向かないように」
 寸でのところで思いとどまった。
 「やはり耐えられないようですね。
 先ほどは動きを重圧するだけでしたが今は違う。そのまま石となり、この洞穴の一部と化しなさい、セイバー」
 振り向けば、禍々しく輝く瞳が飛び込んできただろう。
 ライダーの持つ魔眼『キュベレイ』。
 その視線自体が魔術行使となり、見たものを石へと変える、最上級の呪い。
 「くっ・・・・・・あ・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
 セイバーの両足が、すでに白き躯と化していた。
 戦いで身を縛っていたのは乱れ飛ぶ鉄の鎖。
 だが今縛っているものは、己が身より浮き出る、純白の石の鎖。
 脆くも、打ち砕けない、静かな呪い。
 馬乗りになっている士郎には感じ取れる。人工的な鉄の感触が、自然的な石の感触に代わる様を。
 呪いが上半身へと近づく。自らに告げられた滅びの宣告に、セイバーは
 
 「・・・・・・抵抗しないのですか、セイバー」
 「ええ」
 
 ――――何も、しなかった。
 自らの体が石になっていく行程を、揺らぎの無い瞳で見つめていた。
 「あなた方はそこに立ち、私はこうして地に倒れている。ならばこの最後、受け入れるのが当然でしょう」
 よどみの無い声。
 悲観もなく。断念もなく。
 ただ敗者として。
 そして騎士として、自らの存在に結末が訪れた事を、彼女は真摯に受け止めていた。

 「――――強く、なりましたね。シロウ」
 
 ふいに、名を口にした。
 
 「いえ、違いますね・・・・・・・・・・・・あなたは最初から強かった」
 
 穏やかな声。
 かつての数日を振り返るその顔は、静やかに懐かしさをかみ締めている。
 
 そして
 
 「私の、負けです・・・・・・・・・・・・シロウ」
 
 自らの敗北に満足したかのように。
 
 セイバーは静かに眼を閉じ。
 
 
 ――彼女の体は、全てが白に束縛された。
 
 
 
 
 
 
 
 「セイ、バー・・・・・・」
 かつて、それはセイバーと呼ばれていた。
 英霊と呼ばれた剣士であって、けれど触れれば柔らかさを温かみを帯びた少女であった。
 だが、今転がっているそれは――
 「ライダー、なぜ・・・・・・」
 「深い意味はありません」
 抑揚の無い返答。
 「あなたに余計な事を負わせる必要は無い、ただそう思っただけの事です」
 「・・・・・・そうか」
 顔はうな垂れ、だが彼はうなづく。
 悟っていた。これは彼女の計らいなのだと。


 迷いはあった。だがそれ以上に決意があった。
 たとえライダーの介入がなかろうと、彼は刃を、セイバーの胸へと振り下ろしていた。
 ここは死の香りしか存在しない。
 士郎とセイバー、彼らが戦いの末もたらすのはただ一つ。
 
 死。
 
 鮮血と鉄の匂いに塗れてしか、迎えることのできなかった結末。
 
 それを。
 ライダーはぬぐってくれた。
 
 漆黒の鎧が、今は純白の装束へと変わっていた。
 悪性に囚われ、身も魂も闇からは逃れられないはずだった彼女。
 だが今はどうだろう。
 穏やかに瞳を閉じ、石の少女として永遠に眠り続けるセイバーは、いつしか地へと帰る未来を得た。
 その剣はもはや振るわれる事はなく、その瞳は士郎を捉える事はもう無く。
 地面にたわむ髪は、もう金砂のように揺らぐ事はない。
 けれど。
 
 ”美しい”
 
 横たわるセイバーの姿は、潔白で、美しいと、心の底でそう思った。
 
 
 ならば、答えねばならない。
 
 
 ――――君を 忘れる
 
 
 衛宮士郎は立ち上がる。
 感傷に浸る時間はない。
 左腕を解放した時から知っていた。自分がもう、わずかしか持たないと。
 人を超えたサーヴァントの力が、代償なしに使えるはずがない。
 彼らは人知を超えた者。持ちうる存在可能性は、人を確実に凌駕する。
 
 
 ――――君を 忘れる
 
 
 一度力を解放すれば、喰い始める。
 片腕と人一人、占有権を持つのは片腕。
 流入した膨大すぎる経験と魔力は人の回路と神経を食い荒らし、更には
 
 
 ――――君を 
 
 
 「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ぁ」
 
 
 ――そこに音があるとしたら、砕け散るガラスのように、脆い音に違いない。
 
 主張する異物は、衛宮士郎をも侵食する。
 彼が彼だと証明する、人格、意識、記憶が。
 「あ・・・・・・れ・・・・・・」
 破壊される。
 「え・・・・・・・・・・・・これ、は・・・・・・・・・・・・」
 見下ろしていた。
 一体の石像。鎧を纏った精巧なる少女の石像。
 ライダーの能力は覚えていた。故に目の前の石像が、元はおそらく人であっただろうと理解はできる。
 けれど。
 (誰、なんだ・・・・・・?)
 
 ――何故、彼女はここにいたのか。
 ――静かに眼を閉じるこの少女は誰なのか。
 
 彼がここにいる大切な理由が。
 今はもう、頭の中から砕け落ちていた。
 「士郎?」
 異変に気づき、ライダーが問いかける。
 返答は無言。紡げる言葉など無い。
 もう、思い出せないから。
 それが誰なのか分からなければ、疑問に思うその訳すら理解できないから。
 
 
 「・・・・・・」
 彼は立ち上がる。
 そこに悲観も感傷も無く、けれども。
 なぜか、満足していた。
 見下ろす石像が未だ誰かは分からないけれど。
 
 ――美しい、と。
 
 穏やかなその顔が美しいと思い。
 それで十分だと、彼は満足した。
 「・・・・・・先に行く。ライダー、お前は」
 遠くを見つめる。広がり迫るのは漆黒だけ。
 だが進むべき先が分かれば、それで良かった。
 「しばらくここに残ります。先ほど魔力を使いすぎましたので」
 ライダーもまた理解したのだろう。最低限必要な情報だけを、士郎に伝える。
 「そうか」
 「回復したら、必ず向かいます。それまでは」
 「分かった、頼りにしてる」
 小さなやり取りを終え、衛宮士郎は歩き出す。
 もはや、振り向く事は無い。
 
 
 この先にあるのは、この世のあらゆる悪意を抱いた胎児の創生。
 彼が救おうとしている少女は、世の全てに憎悪を見出した全ての根源。
 進む道は、先ほど対峙した闇よりも暗く、けれど。
 破滅に染まるその場所に、たった一つの活路を携え。
 
 歩く。
 
 忘れてはいない。どんな事があっても救うと誓ったから。
 
 歩く。
 
 忘れたりはしない。春になったら、一緒に桜を見ようと約束したから。
 
 
 彼は、歩き出す。





 
 ――これより先を語ることは許されない。
 今あるここは、至るべき終焉より捻れ、離れた道の一つ。
 だが捻れた道筋も今、本来進むべき道へ帰着しようとしている。
 湾曲する場に立つ我々ができるのは、ただ、願う事。
 
 
 ――冬が過ぎ、桜乱れ咲く春が訪れたその時に
 
 皆で集まり、語り、傍らで笑う桜を、穏やかに愛でる日が来る
 
 
 その時を――――
 
 
 END


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