作:いチノマキ
「よどみの淵」
この世には、人の窺い知れぬものが存在する。人はそれを、妖怪や超常現象の類で説明しようとする。しかし、その「窺い知れぬもの」が人の姿をして、あなたの隣に座っていたとしたら、あなたはそれに気づくだろうか。
そう、例えば彼女のように・・・。
× × ×
四月。まだ少し肌寒い季節である。
咲きかけの桜の下を、制服姿の一団が、嬌声をあげて通り過ぎていく。
場所は変わって、ここはある教室の中。
先ほどと変わらず、教室の中は嬌声で溢れかえっている。きっと、春休みにあったことなどを話しているのだろう。
その時、教室の扉をガタンと開ける音が響く。
教室の嬌声が少し止み、皆の注目が扉の方に注がれる。
去年と変わらない顔なじみの教師と、その後ろには転校生らしい女学生が入ってくる。
その女学生の風貌は、長くストレートに伸びた黒髪と、ヘーゼル色をした瞳。
嬌声が、特に男子の中では、再び沸き起こる。
教卓に立つ、教師がその女学生に挨拶を促す。
「あ、あの・・私、三沢よどみと言います。転校してきたばかりで、あの・・この学校の事とか良く分からないんですけど、よろしく・・お願いします・・・。」
その女学生、よどみの緊張した自己紹介に、教室内の嬌声は最高潮に達する。
教師が、その喧騒をなだめるように、よどみに席を紹介する。
教室中の視線を浴びながら、まるで借りてきた猫のように、おとなしくよどみは席につく。
× × ×
一限目が終わり、よどみの席の周りには生徒が溢れ、どこから聞きつけたのか、教室の外からも、その光景を覗き見る者もいる。
「よどみちゃん、何が得意教科なの?」「あの、よどみさん好きな食べ物は・・」
よどみの席の周りの嬌声は止むことはない。と、そこに、
「何、してんのよ、みんな!」
ひときわ威勢のいい声が響く。一瞬止む嬌声。
「って、陽奈別にいいじゃんかよ」「そうそう、オレら友達になりたいだけだし」
「分かってるの?よどみさん転校してきたばっかで何にも知らないっていうのに、いきなり質問攻めって、非常識過ぎない?」
陽奈、と呼ばれたその女学生は、よどみの周りの、特に男子生徒に向けて、キリリと厳しい視線を放つ。
「へっ、」
よどみの周りから、バツが悪そうに男子生徒たちが遠ざかっていく。
× × ×
放課後、公園のベンチに二人の女学生が座っている。
よどみと陽奈である。
「ねえ、陽奈さん・・・、さっきは・・迷惑かけちゃったみたいで、その・・」
もじもじと視線を動かすよどみ。と、
「別に、気にすることないって。」
陽奈は、きっぱりとした表情を浮かべる。
「この時期の男子って、みんな何か子供っぽいじゃん?それに私も、小学校で転校したときも最初はあんなんだったよ。好奇心っての?新しいのに興味が沸くっていうか、・・・?あれ、どうしたの、よどみ?疲れたみたいな顔して?」
何かに気づいたのか、ふと陽奈はお喋りを止め、よどみを見る。
「別に・・・、何でも・・・ないわ、陽奈さん・・。」
陽奈から半ば意図的に視線をそらそうとするよどみ。と、陽奈はそれに抗するかのように、首をもたげてよどみの表情を捉えようとする。
「別に他人ぶらなくたってもいいじゃん、いくら今日初めてって言っても!」
すると、よどみが重い口を開く。
「ごめんなさい、陽奈さん・・私、今日色々と・・・新しいことばかりで、何か・・疲れちゃったみたい・・・。」
はたと、気づかなかった風な表情を浮かべる陽奈。
「あ、ごめん!そういえばそうだよね!私ってつい自分のことに夢中になると、人のこと忘れちゃう人なんだ。」
と、陽奈がふと、よどみの手を握る。
「で、夢中になったついでに、よどみの家に遊びに行っていい?」
「ええ・・・、別に・・、構わないわ・・・・・・」
よどみは、相変わらず切れの悪い返事をする。
× × ×
場所は変わり、ここはよどみの家である。どうやら、優柔不断なよどみは、陽奈の好奇心を止められなかったようである。
「へぇー、かなり広いのね!」
陽奈は、玄関に入るなり大きな声を立てる。と、よどみがポツリと陽奈に話し掛ける。
「あの、陽奈さん・・、お茶入れてくるから・・、突き当たりの居間で待っててくれる・・?」
「うん、」
そう返事をするなり、陽奈は靴を脱いで廊下を走る。それを後ろからながめるよどみ。と、
「ふふっ・・・。」
よどみが、疲れた表情から一変、歪んだ笑みを浮かべる。
× × ×
居間で、陽奈はよどみが来るのを待っていた。
居間の中にも、開けられていない段ボール箱が数箱あり、陽奈は引越しの最中なのに、今日来るのは間違いだったかなと思いつつ、色々と聞きたいことで頭の中は一杯になっていた。
と、暇に任せてその時陽奈は、ふといけない事を思いついた。
開けられていない段ボール箱を一つ開けてみよう。
きっと、後でいやな表情をされるのは分かっている。そう思いながらも陽奈は箱を開けてみた。
と、そこには奇妙なものが入っていた。
歪な球体の金塊。それもサッカーボールほどの大きさである。よく見ると、何かの像とも思える。それを見て、何に使うのか分からないと表情を浮かべ、それに触れようとする陽奈。と、
「陽奈、さん・・・」
背後から声が聞こえる。よどみの声である。
「え、あの、勝手に開けちゃってごめん!」
陽奈は手を合わせて後ろを振り向く。だが、そこによどみの姿は無い。
「あれ、よどみ、・・・?」
声が聞こえたはずなのに、いるはずのよどみがいない。陽奈は居間の中を見回す。
「よどみ、どこにいるの?さっきの事ならあやまるから・・」
居間のドアに近づく陽奈。と、
「ぬめり・・・?」
足の裏に奇妙な触感を感じ、陽奈は立ち止まる。ふと足元を見下ろす陽奈。と、そこには何かをこぼしたような水溜りがあった。ぱっと、足を上げる陽奈。と、
「見てしまったのね・・」
その水溜りがよどみの声を発し、自ら意思を持つようにうねりを上げ、陽奈に近づこうとする。
「!!?」
目の前で起こっている光景を理解できず、恐怖感で立ち止まる陽奈。
液体が、うねうねと波を立て、次第に少女らしきフォルムを形作る。
「陽奈さん、あなたとても親切な人ね。」
液体から声が発せられる。まさにその声は、よどみのそれである。
「よどみ・・!?」
「今日は私の家まで来てくれて、そうあなたは私の久々の獲物・・・!」
そう言うなり、液体が陽奈に向かい、まるで津波のように襲い掛かる。
「キャアアアアァッ!」
目の前の信じられない光景から逃げようと、錯乱する陽奈。しかし、その液体は、陽奈を頭から呑み込んだ。
「く、ああっ・・・!」
液体にまみれながら、床に転ぶ陽奈。液体は容赦なく陽奈を襲う。
陽奈は混乱しながらも、今起きている出来事を分かろうとした。
液体が服の隙間から入り込み、身体全体が包み込まれている。
しかし、口や鼻は液体に包み込まれているのに、息が出来る。
「気分はどうかしら、陽奈さん?」
自らが包まれた液体から、よどみの声が聞こえる。
「これはいったい、・・・?」
「ふふっ、見ての通りよ。あなたは今わたしの中にいるの。やっぱり若い女を襲うには、女の姿が一番警戒されないわ。」
「え・・、いったい何を・・」
「あなた、さっき箱の中身を見たでしょう?」
「え、・・うん」
「あれって、一体何か分かるかしら?」
「え、・・って言われても・・」
「人間の頭よ。」
途端、陽奈は言葉を失う。
「正確には、人間だったものと言えばいいかしら・・どうしたの、そんな思いつめちゃって。」
陽奈の身体は、恐怖で小刻みに震えていた。その振動が陽奈を包むよどみにも伝わり、よどみの身体が波打つ。
「・・・よどみ・・・!」
「どうやら、恐怖で言葉が出なくなったみたいね。そうでしょうね、さっきのオドオドした子がまさか化け物だなんて、思いもしないものね。それに、今日優しくしてくれたお礼もしてあげなくちゃいけないわ。」
そう言うなり、陽奈を包み込んだよどみの身体が、まるでボンドが乾くかのように硬くなっていく。
「・・・・!」
「お喋りも、そろそろお終いにするわ。・・・あなたを食べてあげる。」
よどみが呟いた瞬間、陽奈の右足に激痛が走る。
「アッッ!!」
「ふふっ、痛いでしょう。今あなたの右足から精力を吸い取ってるところなの。今からあなたの精力を全部吸い尽くしてあげる。」
その言葉が発せられた途端、陽奈の全身をまるで電流のように激痛が走る。
と、同時に陽奈は、自分の右足の感覚が失われていくのを感じた。
「いったい・・何を、ウウッ・・」
「右足の精力を吸い尽くしたところよ。綺麗だわ、あなたの右足が真っ白な大理石に変わってるわ。」
瞬間、陽奈の脳裏にさっき見た歪な球体の金塊がフラッシュバックする。続いて、よどみがさっき発した言葉がよみがえる。
自分が、人間でない何かに変えられる。恐らく、真っ白な大理石へと。
経験したことの無い恐怖に、陽奈の理性が揺らぐ。
「いや、助けて!」
陽奈は半ば反射的に手を動かし、何かに助けを求めようとする。その度に、陽奈の身体に激痛が走る。
「そんなに怖がらなくてもいいの、爪先から頭のてっぺんまで、ジワリと変えてあげる。」
底知れぬ恐怖に身も心も囚われた陽奈を、よどみは半ば嘲笑う。
よどみの言葉通り、左足の爪先からじわじわと陽奈の身体は大理石に変わっていく。
身体が舐められるように石に変わるたび、激痛と恐怖以上の何か得体の知れない感覚が陽奈を包み込む。
幾らかの時間が経っただろうか、陽奈の身体の感覚は首から上を残すだけになった。
ふと、陽奈の目から涙がこぼれる。
「いや・・・・、こんなの・・・」
そう言葉を発したと同時に、喉が大理石へと変わる。じわじわと痛みが頭を覆い尽くしていく。口も耳も、石に変わっていく。最後に、視覚だけが残った。そして、目が大理石の球体に変わる。
「ふふっ、綺麗な乙女像が出来上がったわ。」
そう言うなり、よどみの液状の身体が、かつて陽奈であった大理石の塊から離れ、少女のフォルムを形作る。
人間の少女の形状になったよどみは、陽奈の大理石の像に近づく。
「石ころに衣服って、似合わないのよね。」
瞬間、よどみの手が鉤のようになり、陽奈の衣服を切り裂いた。
<後日談>
部屋に置かれた陽奈の像を前にして、よどみはため息をついた。
「困ったわ、こんなもの部屋に置いてあっても、単なる場所ふさぎにしかならない・・・。ネットオークションにでも出して、石像愛好家の方に買ってもらおうかしら、ふふっ・・・。」