スパイの代償

作:愚印


「くっ、卑怯者!!」
「おや、そんなことを言っていいのかなあ?ああ?可愛い妹がどうなってもいいのかなあ?」
「おねえちゃん、助けて。怖いよ。」
「くっ。」
 レイカは悔しさで唇を噛み締めていた。
 レイカはとある組織のスパイだった。幼少の頃よりスパイとして鍛え上げられたレイカは、これまで様々な敵対組織の秘密を探り、壊滅させる手助けをしてきた。そして、その報酬はすべて、年が離れた妹のもとへと送っていた。唯一残った肉親である妹の成長だけが、レイカの生甲斐だった。
 今回もうまく潜入を果たし、スパイ活動を本格的に開始しようとした矢先に、組織から工場へ呼び出しを受けた。工場に入った途端に身体を拘束され、今回の予想もしていなかった妹との対面になったのだった。
 今、彼女は壁面にパイプが張り巡らされた部屋の真中に立っていた。武具の一切は没収され、はじめに嵌められた手足の拘束は外されている。周囲には何に使うのかレイカの知識では判明しない機械が無造作に置かれ、その装置の一つに白衣の男が一人立っている。目の前にはモヒカン刈りの男が、可憐な少女に刃物を突きつけていた。少女の瞳は恐怖で見開かれ、涙が溢れ出ていた。
(誰が私を売ったのかしら。妹の存在を知っているのは組織でも一握りだけのはず。こんなことになるなんて…。マミちゃんだけは守りきるって誓ったのに。)
「マミちゃん、いいえ、妹には手を出さないで!!」
「あんたがこちらの言う通りに動けば、妹さんは家へ帰れるだろうな。」
「何をすればいいの?」
(ごめんなさい、マミちゃん。私の仕事に巻き込んでしまうなんて。あんなに怯えて…。あなただけは必ず守って見せるから。たとえ組織を裏切ることになったとしても…。)
「あんたには、以前の組織で色々と煮え湯を飲まされたからな。そのお返しをさせてもらう。」
「どうするつもり!!」
「一瞬を永遠とするカーボンフリーズで固まってもらうのさ。」
 カーボンフリーズと聞いてレイカは眉をひそめた。
(本来は物質の長期輸送を想定し開発された保存技術。どういうこと?)
「カーボニウムはそんじょそこらの金属と違い頑丈だからな。一度固まればどんな衝撃でも傷一つつけることはできねえ。そいつであんたを固めるといってるんだ。」
 モヒカン野郎は困惑気味のレイカを優越感のこもった瞳を向けている。
「簡単にいえば、強制的に冬眠してもらって周りを金属で固めるだけだから。大丈夫だって。解凍時に記憶の混乱が起こることがあるらしいが、あんたの場合その心配は不要だろうからな。解凍する予定がないからなあ。」
(くっ、好き勝手なことを…。くやしい…。)
「おっとその前に、あんたのその服装は色気がないなあ。脱いでくれないかな。」
 少女の首筋にナイフの切っ先をツンツンと軽く当てながら、モヒカン野郎はレイカに命令した。
 組織から支給されたボディースーツをレイカは簡単に脱ぎ捨てた。彼女の中では、妹の安全が羞恥心をはるかに上回っていた。
「うほ、いい女。」
 モヒカン野郎は舌なめずりをしながら思わず声をあげた。バランスの取れた、出るところは出、引っ込むところは引っ込んだ女体は、見るものの息を飲ませるに値した。その短髪と引き締まった肉体の組み合わせは、野性の雌豹を思わせた。
 レイカは見事な身体を隠すことなく晒しながら、再度モヒカン野郎に約束の確認をする。
「最後に約束して!!今後、妹には手を出さないと!!」
「わかった。妹には何の恨みも罪もない。記憶は消さしてもらうが、今後手を出さないことを約束する。」
(今は奴の言葉を信じるしかない。)
 レイカは何もできない悔しさから、手を強く握り締めていた。
「やれ!!」
「はっ!!」
 モヒカン野郎の指示を受け、白衣の男が操作盤に指を走らせ装置に命を吹き込んだ。照明が一瞬暗くなり、続いて周囲に設置された無骨な機械が唸りを上げて震え始める。
 レイカの立つ床に、彼女を中心にして直径3メートルの切れ込みが入ったかと思うと、そのままゆっくりと降下をはじめた。
 レイカの身体が少しずつ床とともに沈んでいく。ゆっくりと、しかし確実に…。
(怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。)
 言い知れない恐怖が彼女の心を蝕んでいく。カーボンフリーズというレイカにとって未知の技術だったため、尚更だった。
 しかし、瞳に涙を浮かべながら心配そうにこちらを見つめる妹に気が付くと、レイカは恐怖を押し隠して笑顔を向けた。
(私は大丈夫、たとえどんな姿になってもあなたのことを見守っているから。そう死ぬわけじゃない。時間を止められるだけ。必ず戻ってくる。必ず…。)
 刃物を突きつけるモヒカン野郎を一睨みし、レイカは妹に最後の声をかけた。
「ごめんね、こんなことに巻き込んじゃって。こんなおねえちゃんを許してね。でも、これだけは約束する。必ずマミちゃんの側に戻ってくるから。」
 レイカの瞳から愛情の欠片が涙となって瞳からこぼれ落ちていった。
 シュゴーーーーー!!
 円柱状の穴にレイカの身体がスッポリと隠れると同時に、凄まじい冷気が穴の底から吹き上がった。悲鳴の類は何も聞こえてこなかった。
 ウィーン。ギギギギギギ。ゴウンゴウンゴウンゴウン。
 耳障りな機械音だけが、声の絶えた室内に響き渡る。冷気が渦巻き、内部の様子は窺い知れない。
「もういいだろう。」
 モヒカン野郎の言葉が、いつまでも続くかと思われた沈黙を打ち破った。
「はっ!!」
 白衣の男の指が再び操作盤へとのびる。
 天井に備え付けられた巨大な金属アームが一度ガクンと揺れるとゆっくりと降りてきた。冷気の渦をもろともせずにその中に沈みこむと、何かを掴み引き上げる。機械アームは濛々と冷気を巻き上げる何かをしっかりと掴んでいた。
 それは、縦2.5m、横1.5m、厚さ20cmの鉄の板だった。冷気に遮られハッキリとしないが、表面に何か模様が浮かんでいるようだった。
 プシューッ、ガタン!!
 空気の抜けるような音とともに金属板を掴むアームが緩み、金属板が模様のある面を上にして派手な音を立てて床へと倒れた。衝撃で冷気は吹き飛ばされ、その模様の詳細が明らかになる。
 それはレイカの裸体だった。金属の板にレイカの裸体が文字通り浮かび上がっていた。肌を金属に覆われたレイカは背中と手足の一部を金属板にめり込ませた状態で固められていた。
 髪は一本一本の隙間へ金属が染み込むようにして固まり、ほぼ一体化していた。その表情は苦悶に彩られている。眉はひそめられ、目はぎゅっと閉じられている。唇も息をこらえるように引き締められていた。胸は冷気が床から吹き上がったせいだろうか、僅かに形を崩し、揺れた状態で固められていた。何かを掴むかのように唐突に突き出した左手がなんとも哀れだった。無駄のない曲線を描く腹部と肉質そのままに固められた太腿だけが、以前と変わらぬ形を保っている。 
「おねえちゃん!!おねえちゃん!!おねえちゃああん!!」
 少女の口から悲痛な声が紡ぎ出された。
「凍結さえうまくいってれば、おめえのお姉ちゃんは無事のはずだ。カーボン固化はただの化学反応だから、間違いが起こることはまずないだろう。」
 装置を操作していた白衣の男が手元の画面を見ながらモヒカン野郎に報告する。
「生体の無事を確認しました。完全な冬眠状態です。成功ですね。」
 モヒカン野郎の腕を振り解き、レイカの妹は変わり果てた姿をさらす姉の元へと駆け寄った。
「おねえちゃん、おねえちゃん、こんな姿になってしまって…。」
 レリーフと化したレイカに縋り付く少女。
「おねえちゃん、おねえちゃん、おねえちゃん。ううううう…。」
 少女は胸に手をかけたまま、崩れ落ちるようにしてうずくまった。
「何を言っても、もうお姉ちゃんには聞こえないはずだよ。」
 モヒカン野郎は少女の後ろへ歩みを進め、静かに声をかける。
 その言葉を聞いて少女はゆっくりと顔を上げた。
「そうなんだ、じゃあ、演技はもういいね。これでおねえちゃんはマミの物だよ。」
 低く陰のある言葉とは裏腹に、少女は太陽のように眩しい笑顔を浮かべている。
 背後からモヒカン野郎がおずおずと声をかけた。
「しかし、いいのかい?こんなことして。お姉さんのこと大好きなんじゃないの?」
「うん、マミはおねえちゃんを愛してるんだ、この世の誰よりもね。」
「まあ、こちらとしては全額前払いで引き受けた依頼だから何の文句もありませんがね。」
「マミはお金なんて必要なかった。おねえちゃんが側にいてくれればそれで良かった。スパイをやめてって何度もいったけど聞き入れてくれなかった。このまま危ない仕事を続けていれば死んでしまったかもしれないのに。そんなことになったら、マミは耐えられない。」
 レリーフから一旦離れ、全体像を眺めながら少女の独白は続く。
「だからマミはおねえちゃんを保存することにしたんだ。おねえちゃんが稼いでくれたお金を使ってね。おねえちゃん、あのお金はマミのために稼いでくれてたんだよね。だったら、マミが今一番したいことにお金を使ったとしても怒らないよね。私の願いはおねえちゃんと一緒にいること。ずっと一緒にいること。おねえちゃんの今を封じ込めて、ずっと一緒にいるんだ。ねっ、おねえちゃん。一緒にいようね、いつまでも。いつまでも一緒だよ。ねっ、おねえちゃん!!」


FIN


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