作:幻影
アヤは壁伝いに地下を目指していた。
レイの不意打ちによって、彼女の視力が一時的に麻痺してしまったのである。
そんな彼女を突き動かしているのは、サエを、トモを助けたいという思いだった。
(待ってろ、サエ。今行く・・・トモ、私が来るまではやまったことをしないでくれ・・・)
一抹の不安を感じながら、アヤは急ぐ。歩を進めるうちに、視力も次第に回復していった。
そして空気の流れや破邪の剣の気配を辿りながら、アヤは地下室に出入り口の前まで来た。
そのとき、アヤはブラッドの力が蠢いたのを感じた。
(これはカオスの力!この中にサエも!)
アヤは慌てて地下室の中に足を踏み入れた。そこにトモがいることも感じ取っていた。しかしトモはアヤの姿に気付いていない。
トモは恐る恐る、奥の壁に手を伸ばそうとしている。彼女の手が壁に触れた瞬間、
「わっ!?うわっ!」
手が壁の中に溶け込むように吸い込まれ、トモが壁の中に入り込んでしまった。
「トモ!」
アヤが声を荒げて壁の前まで駆け寄る。
「トモが、この中に入っていった・・・」
アヤは右手をゆっくり伸ばし、壁の先の気配を探った。
「この奥にあるのは、カオスが作り出した変異空間か。この中にサエの気配も感じる。カオスの力を受けて固められている。そして同じように固められた女性も何人か・・・」
アヤは壁の向こうの空間の気配を掴んだ。彼女は見えない眼を押さえる。視力はまだ回復しない。
ブラックカオスの作り出した変異空間に入り込んだトモは、サエとカオスを追い求めて薄暗い空間を彷徨っていた。
この空間では、魂の在り方が強く表面化されるため、生まれたときの姿で行動することになる。トモは一糸まとわぬ姿で、空間を進んでいった。
「寒い・・・」
冷たい空気がトモの肌に伝わる。それに耐えながら、トモは空間を進んでいく。
そして彼女はサエの姿を発見した。サエはカオスが作り出した炭素の壁ではなく、空間の壁そのものに埋め込まれて固まっていた。
「サエ!」
トモは急いでサエのもとへ近寄った。サエは顔に恐怖を滲ませたまま、微動だにしていなかった。
「サエ、ゴメンね・・あたしがしっかりしてれば、こんな辛い思いをしなくても済んでのに・・・」
(トモ・・・)
悲痛に顔を歪めるトモの脳裏に、サエの声が響いた。
「サエ!?サエ!」
サエの声を聞いたトモが必死に呼びかける。サエはもうろうとした意識で、心の声をトモに送っていた。
(トモ、きっと来てくれると信じてたよ・・・カオスにヘンなことされて、こんなふうに固められちゃったけど、トモとアヤちゃんが来てくれると信じてたから、何とか耐えられたよ・・・アヤちゃんはどうしたの・・・?)
「サエ、あなたを捜すためにいったん別れたのよ。そろそろ来るとあたしも信じてるけどね。」
物悲しい笑みをサエに見せるアヤ。しかし固められたサエの表情は変わらない。
「入ってこれたか、ここに。」
背後から響いた声にトモは振り返った。ブラックカオスが不敵な笑みを浮かべてトモたちを見つめていた。彼も衣服を身に付けてなく、一糸まとわぬ姿をしていた。
「ブラックカオス!」
「どうやら、自分がブラッドであることは渋々ながらも受け入れているようだな。ブラッドの作り出した変異空間は、普通の人間には入ることさえできない。今お前がここにいることと、破邪の剣を使いこなしていることが、お前がブラッド、ブラックエンジェルであることの何よりの証拠。」
「おしゃべりはいいわ!サエを元に戻しなさい!」
カオスに鋭い視線を向けるトモ。しかし一糸まとわぬ彼女は丸腰で、武器になるようなものは何ひとつ持ってはいなかった。
「まぁ聞け。私がなぜ支配を強いるのか。」
悠然とした態度を崩さずに、カオスは語り始める。苛立つ気持ちを抑えながら、トモはカオスの言葉に耳を傾ける。
「私は誰かに血を吸われたではなく、純粋なブラッドとしてこの世界に生まれた。人間を凌駕した力を持った私は、それ故に周囲から恐れられた。殺されてしまう。怪物。死神。様々な虐げを私は受けてきた。そしていつしか、その恐怖から逃れるために、私の命を脅かそうとまで考える者まで出てきた。」
カオスから笑みが消え、表情が次第に曇る。
「私は最初は好きでこの力を持って生まれてきたわけではないと思っていた。人よりも強い力を持っただけで、なぜ忌み嫌われなければならないのか。喜ばしいはずなのに。私自身、傷つけるつもりなどなかったのに。どうして力を持った私がこんな不条理を強いられるのか。」
カオスの話を聞くうち、トモは彼に感情移入を無意識のうちにしていた。彼はアヤと同じように、人間の力を超越したために周囲からの妬みにあい、孤独を痛感していたのだ。
「私はもはや人間を信じることはできない。心苦しいことだが、支配をもってこの世界を平和へと導く。」
「そのためにアヤを・・」
トモの悲痛な言葉に、カオスは物悲しい笑みを浮かべた。
「嫉妬だったのかもしれない。私が孤独を体感している傍らで、楽しく仲良くしている彼女を妬んでいたのかもしれない。そしてお前たちも・・」
「そのために、みんなを・・・」
トモの中に再び、カオスへの憎しみが込み上げてきた。
自分の感情のために、時間を止められた大講堂のみんなはたまったものではない。自分の考えのために力を強いられた仲間たちはあまりにも可愛そうだ。
カオスが不敵に笑って見せて、さらに話を続けた。
「こうでもしなければ、平和は訪れないと判断したんだ。それが間違いだと思うなら、その罪を認める。だが、このブラッドの世界の確立は、絶対に果たさなければならない!この世界に生きる全ての人のために!」
カオスがトモに詰め寄り、強く抱きしめた。トモはカオスの体を、カオスの考えを否定しようとするが、振りほどくことができない。
「イヤッ!カオス!」
「お前も辛い思いをしたんだよな!そして楽園を見つけるために、今まで彷徨い、戦ってきたんだな!私と志をともにするなら、お前の楽園を返してもいいと思ってる!だから!」
「ダメッ!支配じゃ誰も喜ばない!誰も救われたりしない!支配は誰かの自由を必ず奪ってる!それはホントの楽園じゃない!」
必死に叫ぶトモに、カオスは突然口付けを交わした。その行為に戸惑うトモ。
唇を離したカオスが、眼に涙を浮かべて答えた。
「ではどうしろというのだ!?このまま人間の勝手な解釈を受け入れろとでも言うのか・・・それこそお前のいう楽園ではなくなるだろ・・・」
カオスはトモを抱き止め、彼女の肌を撫で回した。彼と共感してしまったトモは、彼の抱擁に対する抵抗ができないでいた。
「トモ!」
トモの気配の低下を察知したアヤ。
ブラックカオスに抱擁されているトモの様が、アヤの脳裏に浮かび上がる。
「くそっ!トモ!トモ!」
必死に叫ぶアヤ。トモはカオスに抱かれたまま動かない。
そのとき、アヤはふと叫ぶのをやめた。壁に触れている両手に眼をやる。
「眼が・・眼が見える・・・!」
傷ついた自分の両手、灰色の壁、その奥に映るトモとカオスの姿。
レイとの戦いで麻痺した視力が、完全に回復したのである。
「よしっ!」
アヤは覚悟を決めて、カオスやトモと同様に壁の中に入り込んだ。
カオスの作り出した変異空間に飛び込んだアヤ。彼女もまた一糸まとわぬ姿でこの空間を漂っていた。
(やはりだ。ここではブラッドの力は使えない。ブラックカオスのようなSブラッドならともかく・・・)
自分の本来の力が発揮されないことを痛感するアヤ。この変異空間ではSブラッドへ覚醒していなければ、ブラッドの力は発揮されない。しかも、本来何も身に付けていない魂の形で行動することになるため、使い慣れている破邪の剣も使えない。
アヤとトモはカオスに対して、絶対的不利な状況に置かれていた。
空間の周囲の壁には、たくさんの女性たちが埋め込まれて固められていた。カオスの力によって炭素凍結された人たちである。
哀れむ気持ちをアヤは押し殺した。今は彼女たちに構っている暇はない。サエとトモを助けなければならない。
「ブラックカオス!」
カオスとトモの姿を捉えたアヤが、一直線に2人に向かって飛び込んだ。
「お前も来たか、ブラックナイト!」
振り返ったカオスが不敵に笑う。抱きしめていたトモから離れ、空間の闇の中に消えていく。
「トモ!」
アヤは完全に脱力したトモの体を支える。トモは放心したような顔をしていた。
「トモ!しっかりしろ、トモ!」
アヤに呼びかけられ、トモは我に返って彼女の顔を見た。
「ア、アヤ・・・」
「トモ、大丈夫か!?サエは、サエは見つかったのか!?」
アヤに言われて、トモは背後の壁を指差した。アヤが見上げると、サエがその壁に埋め込まれる形で固められていた。
「そんな・・サエまでこんな・・・」
動揺の広がるアヤ。だらりとしたトモを介抱する。
そのとき、サエの体が突然、まばゆいばかりに光り出した。
「な、何だ!?」
驚愕の声を上げるアヤ。空間の天井に亀裂が生じ、同じような光が差し込んできた。
「まさか、邪神が・・!」
この事態に、トモが顔を上げる。サエの精神エネルギーを糧にして、邪神への扉が開かれたのだ。
「あ・・ぁぁぁ・・・ああ・・・」
邪神の力の激しい蠢きに、サエが胸中で悶え苦しみ、その声がアヤとトモに届く。
「サエ!」
トモとアヤの声が重なる。
裂け目から入り込んできた光が、一点に流れ込んでいく。
「これで終わりだ!」
「カオス!」
振り返ったアヤの視線の先に、右手を伸ばすカオスの姿があった。光はカオスの体に収束していた。
「しまっ・・!」
虚を突かれたアヤたちに向けて、カオスの右手から閃光が放たれた。
アヤはトモをかばうように強く抱きしめた。カオスの閃光に飲み込まれた2人。
カオスの力を受けたトモとアヤは、互いを抱きしめたまま動きがを止めた。時間凍結を受けた2人の体は、サエの眼の前で陰りのある灰色に変わった。
力を放った右手を見つめて、カオスが不敵な笑みを見せる。
「これが邪神の力、支配を完全とする力か・・・力を極力抑えられてしまうこの変異空間でもこれほどの力が出るとは・・・」
極限にまで高められた自分の力に感服するカオス。邪神の力によって高められた彼の時間凍結にかかり、アヤとトモはその行動を停止した。
「お前たちの時間(とき)は止まった。この空間で仲間同士、私の支配する世界を見届けるがいい。」
固まったアヤとトモを見つめながら、カオスは空間から姿を消した。彼の作り上げたブラッドの世界に住まう人々に、その支配を見せ付けるために。
ブラックカオスがブラッドの世界の象徴として建てた建造物「ブラッドステージ」。
邪神の力を得たカオスの登場を心待ちにしている人々が、観客席に集まって騒ぎ出していた。
そしてステージの中央に火花が散り、出現した閃光の中から、邪神の力を手に入れたブラックカオスが姿を現した。彼の登場に観客が沸く。
カオスは悠然とした態度で、観客たちに笑みを見せる。両手を広げ、観客たちに声をかける。
「今こそ、この世界が完全なものとなる!愚かしき人間はブラッドとして変貌し、私の新たなる力によってその時を止める!世界全てが、ブラッドの世界として確立するのだ!」
ブラックカオスの支配宣言とともに、観客席から大歓声が沸き起こった。
全員がカオスと志を同じくするブラッドの集団。誰もカオスに逆らおうと考える人はいなかった。
「ではまず、人間たちの隠れ住む、町の1つに制裁を下そう。」
そう言ってカオスは右手を、ドーム状の天井の開放によって差し込んだ空に向けた。彼の背後のスクリーンに、1つの待ちの風景が映し出される。
カオスが監視用に打ち上げた人工衛星、ブラッドアイが映し出している映像である。
邪神の力を得たカオスが、閃光を上空に放った。撃ち出された閃光は大きく弧を描き、映像の町のほうへと向かっていく。
そして町はカオスの光に飲まれて、その動きを止めた。
ブラックカオスの時間凍結は、町1つを簡単に飲み込むほどに強力になっていた。
「また1つ、人間とともに町の時間が止まった。これを目の当たりにした他の人間たちも、邪神の力を手にした私を脅威と感じることだろう。」
右手を握り締めたブラックカオスに向けて、観客からの熱気が放たれる。カオスの支配は、拍車をかけて着々と進行していった。
変異空間に漂っているアヤとトモ。ブラックカオスの時間凍結にかけられた彼女たちは、その場から動くことができず、互いを抱きしめたまま硬直していたのだった。
(・・・動けない・・・これが時間凍結なの・・・大講堂のみんなも、サエも、こんな辛い思いをしてたのかな・・・)
トモの悲痛の声が胸中に響く。
(分からない・・・しかし油断した。ブラックカオスの力がこれほど上がっているとは・・・んっ?)
カオスの脅威を痛感していたアヤが、ふと疑問に感じたことがあった。
(どうしたの、アヤ?)
(いや・・・時間凍結されれば、思考も停止するはずだ。それなのに意識がまだある。)
トモの問いかけにアヤが答える。時間凍結されれば、体はもちろん、思考さえも完全に停止してしまうはずである。しかしアヤとトモの意識はまだ残っていた。
(これはどういうことなんだ・・・まさか、私たちもSブラッドに目覚めるということなのか・・・)
アヤは自分たちの力の向上を確信していた。近いうちにSブラッドの力を覚醒させる。
Sブラッドは時を操る。その力を使えば、時間凍結をされても意識を保つことができ、解くことも可能になる。
Sブラッドを覚醒させるには、決意などの心の確立が必要である。誰かを守りたいという強い意志も、Sブラッドの力を呼び起こす鍵でもある。
(私は、何のために・・・)
アヤは自分の戦う理由を思い返した。
人間とブラッドの共存。それが彼女の夢であり理想だった。
しかし、そのかけ橋としていたトモがブラッドであることを知ったとき、彼女は打ちひしがれる思いを押し殺していた。
そんな彼女の中に呼び起こされた言葉。
「たとえアヤちゃんの体がブラッドでも、心は人間だよ。」
トモとアヤを思ってくれるサエの言葉。彼女はブラッドでも人間の心を持った人、人間でも人間の心を忘れた人がいるとアヤに言ってくれた。
(そうだ。私の理想は、まだ完全には失われてはいない。私やトモに人間の心が残っているなら、ブラッドと人間の共存はまだ望める!)
(アヤ!)
アヤの思いを聞いたトモが呼びかけた。
(あたしはみんなを守りたい!大講堂のみんなを、サエを、アヤを!それが今のあたしの気持ちだよ。自分の楽園を取り戻すために、あたしは戦う!)
(ああ。そうだな。私もそんなお前の楽園を取り戻すことが、私の楽園のためにもなるんだ。一緒に戦ってくれるか、トモ?)
(うんっ!)
決意を固めたアヤとトモ。互いの楽園を救い守るため、戦うことを心に決めた。
そのとき、凍てついた2人の体が光り始めた。
(こ、これって・・!?)
驚きの声を漏らすトモ。アヤにはこの現象が分かっていた。
(Sブラッドの力が、解放される・・・!)
Sブラッドの覚醒によって、トモとアヤは自力で時間凍結を解こうとしていた。凍てつく体の殻が剥がれ、時間の束縛を振りほどく。
解き放たれた2人の力は、空間全てに広がり、炭素凍結された女性たちに力を注ぎ込む。
やがて空間そのものが崩壊する。アヤが気が付くと、女性たちを保存していた地下室に横たわっていた。
見回せばトモも、壁に埋め込まれていたサエや他の女性たちもいた。
「トモ!サエ!しっかりしろ!」
アヤがトモとサエの体を揺すり、彼女たちが眼を覚ます。
「アヤ・・・元に戻れたんだね・・・あれ、アヤ、その髪・・!?」
トモがアヤの髪を指差す。彼女の髪の色は真っ白になっていた。
「そういうトモだって・・・」
サエに指摘されたトモも、近くの壁に付けてあった鏡をのぞきこんだ。彼女の髪も白くなっていた。
「えっ!?あたしのも白くなってる!」
驚きの声を上げるトモ。
Sブラッドの力を解放させたアヤとトモは、髪の色が白くなっていた。しかし、彼女たちの力によって、カオスの炭素凍結や時間凍結は解け、サエやたくさんの女性たちが無事に空間を脱出できたのである。
魂で行動していたアヤとトモはちゃんと衣服を身に付けていたが、炭素凍結のためにカオスに衣服を脱がされたサエたちは、未だに一糸まとわぬ姿だった。
「誰か、この子の服を!」
アヤが周囲に声をかける。その声を受けて、1人の女性が声を返してきた。
「服なら、カオス様が自室に置いてあると・・・」
「そうか。ありがとう。」
女性に礼を言って、アヤはトモとサエを見つめる。そこに先程の女性が再び声をかけてきた。
「あの・・カオス様と、戦うのですか・・?」
その問いにアヤは頷いた。
「私たちは私たちの楽園のために戦う。ブラックカオスがそこに立ちはだかる壁になるなら、私たちはその壁を越える。」
自分の決意を語るアヤ。彼女の手には、携帯電話のセットされたウラヌスのスティックが握られていた。
「行こう、トモ、サエ。私たちの楽園のために。」
「うんっ!」
アヤの言葉に頷くトモとサエ。女性たちの悲痛と哀れみを背にして、地下室を出て行く。
衣服を取り戻したサエ、そしてトモとアヤは、ブラックカオスのいるブラッドステージを目指した。